横井小楠

小楠絶筆か

最後の最後まで酒の人。この酒の問題なければ歴史は大きく変わっただろうに残念至極。藩重役に徹底的に足を引っ張られた状況は、今現在起きていることとダブってしまう。歴史上幾たびも起ったことなのだろう。露骨な暗殺ではないものの、政治生命を絶つとい…

横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その六

話少しく変って先生は大の亜米利加贔屓であって、特に二甥を米国に遊学せしめたのである。それにはいろいろ理由もあろうが、その国状が気に入ったからであろう。特に日本の国体をそうしようとまでは考えなかったけれども、共和政治の価値をたしかに認めたこ…

横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その五

前に述べた如く福井藩主松平春嶽は安政四年先生を賓師として招聘せんとして家臣村田氏壽を沼山津なる先生の閑居に遣わしてその内意を傅えしめた時、村田は数日間滞在して先生の講義を聞いたが、その時の手記の中に「横井氏説話」として先生の話が記述してあ…

横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その四

先生は慶応三年二甥左平太・大平を米国に遊学せしめたが、その時の送別語中に。 堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くす、何ぞ富国に止らん、 何ぞ強兵に止らん、大義を四海に布かんのみ。 とある。茲で堯舜孔子の道と云うのは、東洋古来の倫理道徳…

横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その三

先生の詩に「道に形態無し、心何ぞ拘泥あらん、達人は能く明らかにし了えて、渾て天地の勢に順ふ。」なる五絶があり、又勝海舟は先生が物に凝滞せずして機に臨み変に応じて物事を処理し、また人をして先生の意見を聞かしめた場合でも、其の答に、今日は斯う…

横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  そのニ

先生はかくの如く勇進的開国論の大立物であったが、当初から開国論者であったかといふに、決してそうではなく、安政年間に入るまでは、激越な攘夷論者であった。 それで水戸の藤田東湖・会澤正志斎などと結託し、肥後勤王党とも交驪し宮部鼎蔵・永鳥三平等と…

横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その一

五 開国論と世界平和論 小楠先生には名論卓説は沢山にあって、その多くは先生の語ったものや書いたものが纒まった文章となつているので、拙著「横井小楠遺稿」にも収録してあるが、掲題の二論は纏まった文章になっていないので「遺稿」にも漏れている。けれ…

横井小楠先生を偲びて  四 小楠先生の全貌 (そのニ)

今までは先生の美点だけを述べたが、先生も人間である以上、多かれ少かれ欠点の持主でもあった。しかし、その欠点と云わるるのには恕すべきものが多いが、何としても弁護の余地のないのは酒癖であった。徳富蘆花が「興に乗っても呑み不興に乗っても飲みまし…

横井小楠先生を偲びて  四 小楠先生の全貌 (その一)

四 小楠先生の全貌 以上で朧げながら在りし日の小楠先生の公的生涯の片影を述べたのであるが、今少しく先生を見直して其の全貌を眺めて見よう。先生の風貌・気質・態度などについては、先生の高弟たる徳富淇水及び江口高廉の書いた「小楠先生小傅」に記して…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十五)

先生は此度の召命の四年前から健康以前の如くなく、ことに入洛してからは病気勝ちで出勤することは少なかったが、至尊の恩寵や輔相始め一統の優遇と同情とに感激して病苦を忍びつつ至誠を尽くし職務に鞅掌していた。 先生の病気は腎臓及び尿路の結核らしく、…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十四)

先生は以上の如くして此の僻遠なる小村に隠れて居ても先生の名は福井に招聘さるる以前から相当広く諸国に聞えて居り、其の招聘後特に江戸の檜舞台で活躍してからは、実に天下の横井であり、熊本でも亦実学党の首領として隠然大いに重きをなして居るので、時…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十三)

春嶽は政治総裁職たる重任にありながら、内外倶に危機相迫りて最も為す有るべきの秋に際し、無為無策退京したのは如何にも無責任で、天下従来の信望に背くこと甚だしく、延いては福井藩今後の立場を失うこととなるので、是に於て信を天下に回復し一藩の立場…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十ニ)

尊攘派はかねて先生を開国論の首魁で、而かも佐幕の奸物と目し、攘夷を促進するには先づ先生を除くべきであるとしていそれを決行することになった。 そうすると肥後藩の志士堤松左衛門は自藩の奸物を除くのに他藩同志の手をかるを屑しとせず、自ら之に当らん…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十一)

此の間に於ける議論を述ぶれば頗る興味があるけれども今は割愛するが、後見職はじめ各閣老はいずれも先生の蓋世の卓識に驚嘆すると共に「七條」は大体に於て行わるる運びとなり、春嶽も亦出仕することになった。 かくなったのは先生出府後二ヶ月間のことで、…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十)

安政五年六月水戸・尾張両藩主と不時登城した廉で隠居謹慎中であった春嶽は、文久二年四月その責罰を解かれて政務參与を命ぜられたので、有力なる助言者を必要とするに至り、四たび先生を招聘すべく三岡石五郎(後の由利公正)を熊本に遣わした。 で、先生は…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その九)

処が、安政四年に至り、福井藩よりの招聘問題が起った。同藩主松平春嶽(慶永)は当時の大名中では傑出した人物で、近年米国をはじめ外船頻りに渡来し、隨つて国内の人心恟々として容易ならぬ時勢となれるを深憂し、一方には屡々幕府に建白する所有り、一方…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その八)

嘉永六年米使ペリー来航するや、弘化四年以来家老職を辞していた盟友監物は相州に於ける肥後藩警備地の総帥に起用せられたり、前述漫遊中萩にて尋ねたけれども面会するを得なかった吉田松陰が海外視察の目的を以て長崎に来舶中の露船に搭乗せんが為に江戸よ…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その七)

先生は此の遊歴によりて其の力量と識見に重きを加えたことは言うまでもないが、交歓した名士中先生の意に満てる者は寥々として晨星の如くであったと見え、国に帰るや杖を投じて「鳴呼天下の広き与に一人の語るべき者なし」と浩歎したとの事である。然るに流…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その六)

先生は以上の如く苦学修養すること四年にして、一日忽然として「吾之を得たり」と言って、其の得たる所を頒つべく家塾を開き、先生の学徳を慕い来る藩士や郷士の子弟を教授することにした。 その塾は小楠堂と名づけられ、はじめは微々たるものであったが、段…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その五)

先生は十一年三月三日帰熊の途についた。帰路は新宿から甲州街道を西に進み、甲府から中仙道に出で、木曽路の難を踏破し、関ヶ原・京都・伏見を経て大阪に出た。それからは昨年の往路と同じ路をとったか別の路をとったか明らかでないが、四月の中旬か下旬に…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その四)

先生は齢已に而立を踰えた男盛りで、文武両道に達し、一廉の見識を備えていたので、今回の遊学は今更文武芸を専攻する学生生活に入るのではなくして、西南僻遠の藩地では到底接し得られない天下の宿学大儒の門を叩いて親しく其の学風に接したり、諸藩の英才…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その三)

天保二年時に先生二十三歳。父時直急逝し。兄時明父の知行そのままにて家督を相続して出仕の身となったので、先生はその厄介者となって通学していたが、同四年居寮生を命ぜられ、日夕菁莪斎に寝食することとなった。 先生の才器はますます認められて、七年四…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その二)

横井家の秩禄は新知で、知行は僅かに百五十石。肥後藩に於ける知行の実収人は「四ッ物成」と謂って手取り四割だから、百石の知行ならば正味四十石に過ぎない。しかもそれが定掟としてはありながら、藩財政の都合で実際はそれよりも更に少く、最も少い時は僅…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その一)

3 小楠先生の生涯 これから小楠先生の生涯について述べるが、私の小著「横井小楠傅」でも、これに菊版で約千三百頁を要しているから、短い時間ではとても話し尽くされぬので、大いに省略することにする。又先生の私生活殊に家庭人としての先生については頗…

横井小楠先生を偲びて 2 「横井小楠傳」著述の動機 (その三)

私は明治三十四年来当地の医学校及び病院に勤務し、医育と医術に従事した関係から、昭和四年「肥後医育史」なる一書を著わしたが、其の資料蒐集に当り肥後の西洋医学の興隆と発達とに、前述の如く小楠先生の力の輿って大なるものあるを認めたのがもとで、諸…

横井小楠先生を偲びて 2 「横井小楠傳」著述の動機 (その二)

熊本には昔から漢法医学が根強く広く行われていたが、小楠先生は之を斥けて頻りに西洋医学を鼓吹奨励した。自家は云う西洋医家の診療を受けるよう勧め、西洋医家とは親しく交わって之を鼓舞し、其の窮せる者は之を補助し、又西洋医学を学ばんとする者を先生…

横井小楠先生を偲びて 2 「横井小楠伝」著述の動機 (その一)

2 「横井小楠伝」著述の動機(小楠先生の肥後西洋医学弘奨) 此の講演会に於て先生を語るのには外に然るべき人がおろうと思うのに、県教育委員会が私にその講演を命ぜられたのは、只今永井教育次長の御挨拶によると、私がさきに「横井小楠傅」を著述して之…

横井小楠先生を偲びて 1 緒言 (その四)

先生の偉大なる教化につきての話が、思わず長くなったのでここで打ち切るが、先生の生涯を概観すると、それは決して華やかなものでは無く、云わば明治維新の縁の下の力持ちであった所に先生の偉大さがあって、先生は廣い意味に於ける卓抜な教育家であったと…

横井小楠先生を偲びて 1 緒言 (その三)

先生は言を立てて一世を始動したので、当時名ある政治家の仕事の中には先生の主義経綸より出たものと思わるるのがいくらもある。その又一方に於て先生は、肥後では小楠堂なる私塾を開き、福井賓師時代には藩学明道館に於て、親しく子弟を教授したが、先生の…

横井小楠先生を偲びて 1 緒言 (その二)

先生が此の如く東亜の偉人とまで云われるのは、どう偉いのか、先生の本領は果して何処にあったであろうか。先生は恰も雲間の遊龍で、吾々風情の者ではなかなか描きにくいが、古人の所謂「大上は徳を立て、次は功を立て、その次は言を立つ。久しうして廃せず…