横井小楠先生を偲びて 2 「横井小楠傳」著述の動機 (その三)

私は明治三十四年来当地の医学校及び病院に勤務し、医育と医術に従事した関係から、昭和四年「肥後医育史」なる一書を著わしたが、其の資料蒐集に当り肥後の西洋医学の興隆と発達とに、前述の如く小楠先生の力の輿って大なるものあるを認めたのがもとで、諸方面から先生の事蹟を眺めて見ると、その学殖と云い、識見と云い、経綸と云い、抱負と云い、たしかに一代の俊傑であることを知り、先生を畏敬するの余り、他日の用にと先生及び先生縁故者の事蹟を調べたり、其等の筆蹟までも蒐集したりなどしたことが、蘇峰及び其の他の人々をして、私を小楠宗の熱心なる信者と目せしむるに至った。
 
徳富蘇峰は小楠先生とは最も深い開係があり、その母は先生夫人の姉であり、父なる淇水及び三人の叔父は、何れも小楠先生の愛弟子であった。

淇水は小楠先生と並び称せられた佐久間象山をはじめ、当時の俊傑には既に立派な傅記や遺稿が公にせられているのに、独り小楠先生には未だ其の事が無いのを深く遺憾とし、その歿するに至るまで常に蘇峰に先生傳記の執筆を促がし続けて居たけれども、蘇峰は世間周知の通りの文豪であり、先生を知れることに於ても第一人者であるから、それは容易でもあり又最適任でもありながら、毀誉褒貶の甚だしい先生の事を書くのには余りに先生と接近していて、充分の信を読者に博する能わざるの虞があったので、他に執筆者を物色しているうち、彼は私が昭和七年熊本医科大学を退職して閑居する事になったのを知るや、待っていたとばかりに私に先生の傅記を書くべく勧め且つ請うに至ったのである。

私はいかに小楠先生を尊敬していても、先生の傅記を書くには其の任でないので、二、三年間逃げ続けている内に、遂に蘇峰の張った鉄條網に引掛って柄にもない筆を執ることになったのである。けれども、小楠先生に肥後西洋医学弘奨ということがなかったならば、私にはかかることなくして終つたであろう。