横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十四)

先生は以上の如くして此の僻遠なる小村に隠れて居ても先生の名は福井に招聘さるる以前から相当広く諸国に聞えて居り、其の招聘後特に江戸の檜舞台で活躍してからは、実に天下の横井であり、熊本でも亦実学党の首領として隠然大いに重きをなして居るので、時勢は先生の閑居を許さず、世人は先生に安息を与えなかった。

京都や江戸を始め、諸藩の情報は引切り無しにもたらせられるし、松平春嶽伊達宗城勝海舟大久保忠寛等の密書飛札は先生の意見を需めて来るし、肥後の同志は勿論、諸藩の名士も屡々先生の閑居を叩くのであった。

他藩の名士は概して覆面して来たので、一々しかと突止めるのは至難だが、かの坂本龍馬の如きは二度も訪問した。

斯くして天下の事も肥後藩のことも此の里には手に取る様に聞えて来て、一歩一歩に行き悩む朝廷や幕府や肥後藩福井藩の足取りは、先生をして黙視するを得ざらしめ、或は口に或は筆に諸種の間題に対して意見を発表し又は建言などした。

かくして先生の浪々の生活は五年に及んだ。先生は此の如く表面にこそ立たね底力の強い指導者であったので、いよいよ明治維新の幕が開かるれば其の晴れの舞台に登場すべき立役者の一人たるべく有識者から期待されていたが、慶応三年十二月王政復古の大号令が発せられ、花々しき新政の門出を仰ぎ見るに至るや、その月十八日朝廷より人材登用の廉を以て長岡護美と先生との御召の達書が鳥丸侍従より京都の肥後藩邸に下った。

その書面が大晦日に熊本に着すると、藩当局では既に士席まで削った先生が一躍廟堂の中枢に用いらるることは大問題であったので、一応先生病気なりとて御断りし、なお召命を奉じて上京した護美を以て、先生の身上について述べた書面を岩倉具覗に提出したが、岩倉は何等之に介意せず、更に早々上京すべきを命じた。

かくては藩府も最早御断りするに由なく、先生の士席を復し徴士として出京を命じた。徴士とは云う迄もなく、諸藩士及び都鄙有力の者にて公儀により抜擢されて参与職又は各局判事に任命せらるる者のことである。

先生は沼山津の草廬にあって、最近国家の非常時で、幕府の政権奉還や新政府の樹立などなど走馬燈の如く変りゆく状勢を眺めては脾肉の歎に堪えず、最後の御奉公をして見たいとの意気に燃えていたこととて、此の御召には千載の一遇として勇躍御受けをなし、明治元年四月八日百貫石港から藩船凌雲丸に搭乗して上京の途についた。
 
海上無事大阪に着くと、恰も主上は前月二十一日に親征の旨を以て同地に行幸されたまま行在所にあらせられ、四月二十二日徴士参与を命ぜられた。先生は主上の還御に先んじて翌月四日入洛し病気で引入っていたが、十二日始めて大政官に出勤し、制度局判事を拝命した。

先生は六十歳で、新政府に召出された人達の中では最年長者であり、識見も一段と勝れていたので、はじめ衆議は先生を顧問にと云うのであったが、ひとり岩倉は、先生を推薦した有力者の一人ではあるけれども、先生の酒癖などに対する世間の非難もあるので多少慮る所あり、松平春嶽の意見をも徴しなどした結果、顧問は見合わせて、先づ制度局判事にということになった。
 
間もなく官制改革があって、先生はこれまでの職務を免ぜられ、徴士参与中から選抜されて新に参与に任命せられ、一躍従四位下に叙せられた。同役は小松帯刀・後藤象次郎・大久保利通広沢真臣・三岡八郎・福岡孝弟・木戸孝尤・副島種臣・岩下佐次衛門で、此の上に三條・岩倉の両卿があって磐石の重きをなしていた。

小楠先生の識見は同役は勿論、大政官中群を抜いて居たので、流石に炯眼な岩倉は先生に信頼すること特に厚く役所ばかりでなく、私邸にも招きて絶えずその意見を聞いたが、先生も亦大政官の大官中岩倉だけには傾倒し彼に対しては満腹の経綸を吐露した。