横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その二)

横井家の秩禄は新知で、知行は僅かに百五十石。肥後藩に於ける知行の実収人は「四ッ物成」と謂って手取り四割だから、百石の知行ならば正味四十石に過ぎない。しかもそれが定掟としてはありながら、藩財政の都合で実際はそれよりも更に少く、最も少い時は僅かに十七石であったから、横井家の家計は甚だ豊かでなかった。又知行を与えられるのは一家に一人で、通常は嫡男と限られていた。二男以下は特殊の才能を認められない限り新知行を以て召出されることなく、所謂冷飯で一生長兄の厄介者となり、家計の裕かでないものは妻帯さえも容易に出来なかった、それで二男以下の者はよく他家に養子に往って其の相続人となったものだが、それにしても武芸目録を相当揃えねば入婿の資格がなかった。で、小楠先生は文に武に抜群の上達を見ねば、一生頭の上らない運命に置かれていた。

 先生は幼にして聡明機敏群を抜き、往々にして人を驚かす行為があり、一面また中々の腕白子僧であって、面白い逸話がいくつも残されている。肥後には霊感公が宝暦四年に創設した有名な学校時習館があって、藩士の子弟は悉く此処で文武の道を学んだ。本館では十歳前後から初等科として句読・習書二斎にて読書・習字の練習をなし、十五、六歳にして上級に進めば蒙養斎に移り、十八歳までに試験を受けて転昇を許されると、講堂に出席して高等の学科を学ぶが、此の中で特に前途有望なる秀才を選抜して居寮生となし、藩費にて館内の菁莪斎に寄宿勉学せしめる。此の居寮生に選抜さるるのは大概二十歳以上であ
る。以上は文芸であるが、武芸の方は本館にくっつけて設けられた東西両?吊にて十五歳頃から鍛練した。

 先生も亦上記の館と?吊に入りて文武芸を修めたが、人一倍俊敏な先生として自己の境遇立場を省察し、将来の立身出世について考慮せぬ筈はないから、血みどろになって励んだので、文武芸共にめきめきと進歩し、教授や師範の信望は深まり行くばかりで、幾回となく賞詞や金子や章服などを賞賜された。