横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その五

前に述べた如く福井藩松平春嶽安政四年先生を賓師として招聘せんとして家臣村田氏壽を沼山津なる先生の閑居に遣わしてその内意を傅えしめた時、村田は数日間滞在して先生の講義を聞いたが、その時の手記の中に「横井氏説話」として先生の話が記述してある。其の一に、

 道は天地の道なり、我国の外国のと云ふ事はない。道の有る所は外夷といえども中国なり。無道になるならば我国・支那といえども即ち夷なり。初より中国と云い夷と云う事ではない、国学者流の見識は大にくるいたり。終に支那と我国とは愚な国になりたり、西洋には大に劣れり、此でメリケン杯は能々日本のことを熟観いたし、決して無理非道な事を為さず、只日本を論して漸々に開国させんとする了簡なり。ここで日本にも仁義の大道を起さねばならぬ、強国になるのではない。そして此の道を明らかにして世界の世話やきにならねばならぬ。一発に一万も二万も戦死すると云う様なる事は必ず止めさせねばならぬ。そこで我日本は印度になるか、世界第一等の仁義の国になるか、頓と此の二筋の外には無い。

とあって、ここでも先生は仁義の大道を以て大義を四海に布き、世界に戦争を無くするの経綸を示している。此の経綸はそもそも何に基因しているであろうか。先生の高弟徳富淇水は彼の手書の中に「各国干戈を動かすより惨憺を極め天地好生の徳に叛くものなければ、先生は天人一致の理想より、各国同盟して四海の干戈を止むるの論を発明せり」なる文字があるにても分かる通り、天人一体(致)の理想、天功ー天の仕事を亮けるという人生の目的から出て来たのである。
 
先生の学は程子朱子から出ているが、先生は宋儒は体有りて用なしとて、致知格物治国平天下の道に於て工夫を竭くしたけれども、決して其の境地を以て満足せず更に洙泗即ち孔孟に遡り、なおも進みて蕩々たる王道を闡明するを以て自己の任務となし、百尺竿頭只天を説くに至った。先生がかく聖道を遡り尽くして見るに至ったその天は果して如何なるのであるか、またそれに到達するには如何にすべきか。元田東野が慶応元年先生を沼山津の草廬に訪いたる際の先生の談話を筆記した「沼山閑話」の中にかかる一節がある。

 宋の大儒天人一体の理を発明し其説論を持す。然ども専ら性命道理の上を説て天人現在の形体上に就て思惟を欠に似たり。其天と云ふも多く理を云ふ、天を敬すると云も此心を持するを云ふ。格物は物に在るの理を知るを云て総て理の上心の上のみ専らにして堯舜三代の工夫とは意味自然に別なるに似たり。堯舜三代の心を用ゆるを見るに、其天を畏るる事現在天帝の上に在せる如く、目に視耳に聞く動揺周旋総て天帝の命を受る如く自然に敬畏なり、別に敬と云ふて此心を持するに非ず。故に其物に及ぶも現在天帝の命を受て天工を広むるの心得にて、山川・草木・鳥獣・貨物に至るまで格物の用を尽して、地を開き野を経し厚生利用至らざる事なし。
 水・火・木・金・土・穀各其功用を尽して天地の土漏るること無し。是現在此天帝を敬し現在此天工を亮る経綸の大なる如之。宋儒治道を諭ずるに三代の経綸の如きを聞ず。其証には近世西洋航海道開け四海百貨交道の日に至りて経綸の道是を宋儒の説に徴するに符合する所有る可きに、一として是れ無きは何なる故に乎。然るに堯舜三代に徴するに一に符合すること書に載る所の如し。堯舜をして当世に生ぜしめば西洋の砲艦器械百エの精技術の功疾く其功用を尽して当世を経綸し天工を広め玉ふこと西洋の及ぶ可に非ず。是れ堯舜三代の畏天経国と宋儒の性命道徳とは意味自ら別なる所あるに似たり。張横渠・西銘の合点は有れども、是も道理を推演して合点と覚ゆるなり。治道事も封建をするの井田を興すと云諭あれども、是後世に廃れたる古法を疆て興さんとしても人情にも叶はず却て益なかる可し。三代の如く現在天工を亮くるの格物あらば封建井田を興さずとも別に利用厚生の道は水・火・木・金・土・穀の六府に就て西洋に開けたる如き百貨の道疾く宋の世に開く可き道あるべきなり。時世古今の別あれば今日の様には開け間布くも其講究義述はいくらも説話の残りあるべけれども是れ無きは全く三代治道の格物と宋儒の格物とは意味合の至らざる処有る可し。一草一木皆有理須格之とは聞えたれども是も草木生殖を遂げて民生の用を達する様の格物とは思はれず、何にも理をつめて見ての格物と聞えたり。大儒を批議するには非ず、後学のもの徒に理学の説話にのみ奔りて現在天人一体の合点なければ大源頭に狂ひありて事変の上に於て道を得ざる事多し。能々合点致す可き事なり。

 これによると、先生は「現在天人一体」を説き、此の合点なければ「大源頭に狂ひありて、事実の上に於て道を得ざること多し」と云って居る。先生の天に対する信仰は大聖舜が旻天に父母に号泣したのと等しく、最早学理を超脱している。而も先生の天人一体の理想は早く其の昔先生が始めて勝海舟と会見した時書き与えた「帝万物の霊を生じて、之をして天功を亮けしむ、所以に志趣大にして、神は六合の中に飛ぶ」という人間の貴きは此にあるを賦した五絶と全く其の意を同じうするのである。なお先生は天の実現の道を同「閑話」の中に、

 人は三段階有ると知る可し。総て天は往古来今不易の一天なり。人は天中の一小天にて、我より以上の前人、我以後の後人と此の三段の人を合せて初て一天の全体を成すなり。故に我より前人は我前世の天工を亮けて我に譲れり。我之を継で我後人に譲る。後人是を継で其又後人に譲れり。前生・今生・後生の三段あれども皆我一天中の子にして此三人有りて天帝の命を任課するなり。仲尼祖述堯舜継前聖開来学是孔子のみに限らず。人と生れては人々天に事ふる職分なり。身形は我一生の仮託、身形は変々生々して此道は往古来今一致なり。故に天に事ふるよりの外何ぞ利害禍福栄辱死生の欲に迷ふことあらん乎。

と述べている。此等先生の説話を味読すれば、要するに先生の思想は天を極天として、天工を受け天工に参与するのを人生の目的を遂ぐる唯一の道としている。先生は上は王公貴人より下は市井の庶民に至るまで、機会ある毎に之を説き、これにより世を経し民を済わんとした。大義を四海に布き世界に戦争を無くせんとするの経綸も茲に述べた天に対する敬虔な信仰より出でたものに相違ないのである。