横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その四)

先生は齢已に而立を踰えた男盛りで、文武両道に達し、一廉の見識を備えていたので、今回の遊学は今更文武芸を専攻する学生生活に入るのではなくして、西南僻遠の藩地では到底接し得られない天下の宿学大儒の門を叩いて親しく其の学風に接したり、諸藩の英才俊秀に接触して互に意見を闘わせ、議論を上下したりして、在藩二十年の研学練磨の上に更に他山の石を以て磨きをかけんが為であり、儒者や学究になる勉強よりも寧ろ治国済世の大道をきわめようと云うのがその目的であって、なお江戸でひと通り修業を積んだら、更に諸国を歴巡して大いに見聞を広めたいのが念願であった。

で、着府以来は佐藤一斎・松崎慊堂を初めとして都下の有名なる宿儒の門を叩いたり、藤田東湖川路聖謨等の如き幕府の重要人物や旗本及び諸藩の傑出せる人達と交わったり、或は幕府や諸藩の制度や文物の利害得失より民情風俗の微に至るまで精査研究したりなどして活学問に忙しかったが、此の年の末頃にはもうそう長く江戸に留まる要もないと考えたのか、年明けて十一年の春にもなれば、早々に水戸に遊び、更に奥羽地方にも遊歴の積りで、いろいろその準備をしていた所が、はからずも東北えの遊歴どころか、丸で反対の西南なる熊本へ帰国せざるを得なくなった。
 
東洋の偉人傑士に酒は附き物で。小楠先生も亦御多分に漏れなかったが、惜しいことには先生には酒癖があり、酒量が過ぎると常軌を逸した言行があった。

それは遊学前からであったので、家人や友人からして、遊学中は特に酒を慎しむようと忠告されてはいたが、好きな酒はどうにもならず、江戸に来てからも時々酒失があって、それが肥後藩の江戸詰重役の耳にも入って憂慮されていた所に、十二月二十五日藤田東湖の催した忘年会に招かれて酒を過ごし、其の帰途他藩の士との間に問題を惹起したので、藩重役は最早黙過する訳に行かず、そのことを国許藩政府え通報に及んだ。

藩府の議としては、事が表沙汰となった上はそのままに捨てて置くことも出来まいから、江戸で相当の処分をなし、遊学だけはそのまま続けさせて、熊本に帰らせるのは止めてはというのであって、其の理由としては、折角藩から撰んで江戸遊学までさせた者が、かかる不始末を仕出しては、藩内の論難も勿論のことであるが、一方では又当人自身がそのために自暴自棄に陥り、折角の才を抱きながらあたらこれを泥上に擲つが如き始末となっては真に惜しむべきことであるという点にあったのである。

けれども、江戸詰重役では先生の禁酒は到底見込がなく、此の上引続き在府せしめたら、又如何なる大事を仕出すかも知れぬとの不安から、さっさと帰国の処分をして仕舞った。
 
世には捨てる神あれば拾う神ありで、江戸重役から見放された先生が江戸を立退かんとするに当り、かねて藤田東湖から才名を聞知していた水戸斉昭は先生を水戸藩に登用せんとして、藤田をして其の旨を伝えしめたが、先生は一応帰国して藩政府からの処分を待たねばならぬし、又今回の酒失に対しては深く心に期する所もあったので之を固辞した。