2010-11-01から1ヶ月間の記事一覧

経集 84

84 世尊宣はく、「淳陀よ、四沙門あり、第五あることなし。そを汝に現に問はれて説明せん。道による煩悩の勝者と道の説示者と、道中に生活する者と道を汚す者となり」。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 五 淳陀経 三二頁) 四種の修行者がいて…

釈尊の聖言 「自我の三種」

釈尊の聖言 一つには四大より作られたる自我、二には手足をすべて具えたる心よりなる自我、三には物質はなく、純粋なる想念のみにてなれる自我なり。われはこの三種の自我を離るる法を説く。 おんみがもしこの法に従いて道を修むるなれば汚れを離れ清められ…

原始仏教講座 第五講 その十七

第五講 その十七 ですから宗教活動を目覚めた人はしなければならないわけですが、その為にはまず基本に戻らなければならない。まずほとけとは何か、真理とは何か、そして宗教活動するサンガ、宗教者の集団とは何かという、この三宝をまず明らかにして、そし…

体得と信

「体得と信」 釈尊の仏教は覚りの宗教である。覚りとは一切の苦を無くしてしまう事である。それを苦からの脱出、解脱とも言う。これはその様な人間状態になる、体験、体得の事である。しかもそれは自分自身でその体験を自覚出来るものである。それは死んでか…

経集 83

83 鍛工子淳陀曰く。「広博の慧ある牟尼仏陀・法主・離愛者・人類の最上者・御者中の優者に我は問ふ。世間い幾何の沙門ありや。冀はくばそを語りたまへ」。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 五 淳陀経 三二頁) 尊い、智慧に充ちた方にお尋ねし…

釈尊の聖言 「恋人を知らず」

釈尊の聖言 自我なる霊魂は、死後この肉体をはなれて、病いなく幸福になると云うは、恋を語りて恋人を知らず、梯子を作りて、のぼる所を知らざるかごとし。 「恋人を知らず」 単なる伝説や請け売りで、自分の安心を決めてはならないと釈尊は教えられる。人間…

原始仏教講座 第五講 その十六

第五講 その十六 お浄土に行って蓮のお寺の上で何とかとかいうような文学的表現ではとても現わせないものなんですね。そこで真宗でも往相即還相となっていると。お浄土に行くということを通してそれが本来の宗教活動にならなければいけないというわけです。…

行動の自由と責任

「行動の自由と責任」 祈祷と祈念 先日、年忌の法要に呼ばれ参上した。ご一同揃った所で、和訳のお経本(三宝信行式−弟子と信者との在り方を集録)をお配りし、ご一緒に誦読した。その後膳席で仏教の在り方を短く法話する。 中にお一人、ある新興教団に入り…

静思湧言

政治家さんヨ、居すわるとタダの人だネ。 千暖の木は黄葉をパラパラと美しく落とします。 四時順行-今のところ太陽は順調です。 この間まで日本は好戦国と云われていましたが、アッチコッチやってますね。 美が平和を代表し、宗教はその陰になる。喜ぶべき…

釈尊の聖言 「苦滅を説く」

釈尊の聖言 フタバルよ、われは苦を説き、苦の集を説き、苦の滅を説き、苦の滅に至る道を説くなり。これは義にかない、法に合し、修行に関係し、執着を離れ欲を離れ、正智を開き、ニバーナに導くものなればなり。 「苦滅を説く」 多くの人が「人生は苦なり」…

原始仏教講座 第五講 その十五

第五講 その十五 そうすると、すみやかに皆さんも、ほとけ、仏身、仏の身ですね、これはブッダ、カーヤ、身というのはカーヤですが、ようするに抽象的存在ではないわけです、仏の体を持つ、体を持つ仏様、仏そのものになるようにと、いつも思っている、これ…

出家清浄

「出家清浄」 釈尊の宗教活動は一日としてお休みということがない。朝の静思、午前の托鉢、午後の静思、夕方の法話、夜の静思、就寝とこのくり返えしである。その間に旅、移動をなされる。 特別の大会とか、何かのお祭り行事といったこともない。人々を正導…

釈尊の聖言 「芯のある者」

釈尊の聖言 アーナンダよ、われは陶器づくりが、柔らかなる土を扱うがごとくなさず、攻め打ちきたえて教ゆるなり。 心の確かなる芯のあるもののみが残るならん。 「芯のある者」 仏けさまと云うと、慈悲が本体で私共を優しく包みこんで下さる方とばかり思い…

静思湧言

一律公平十細心。 どんな時に己を気付かせられるか-逆境と壁。 立腰静思は活力源。 やり過ぎは自他を傷つけ、やり足らぬは足を引っ張る。 鳥は自由に空を飛ぶ。しかし鳥の大きさには限界。 自動車は止まるのが目的である。走るのは手段にすぎぬ。 熱心だけ…

原始仏教講座 第五講 その十四

第五講 その十四 ある時は、この衆のために、こうした人々の為に、仏寿無量、仏の命は無量である仏寿無量なりと説き、仏の命は永遠であるぞと、その永遠の仏様を信じなさいというような話をする、久しくたって、だんだん話を聞いてきて、永遠の仏陀、永遠の…

経集 82

82 而して一切諸徳を具し、漏尽き、悪作の寂静せる大仙をば、偈による食以外の他の飲食もて供養せよ。彼は福を望む者の福田たればなり」。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 四 耕田婆羅堕闍経 二九頁) そして迷ひと執著とを離れ、悪行を鎮めて…

仏教は初中後一貫して施業

「仏教は初中後一貫して施業」 人は誰でも豊かに幸せに生きたいと思う。それは何故かと云うと、どうも理由が見付からない。人間は何故生きるのかと、改めて自分に問うてみて明確に答え得る人は非常に少ないであろう。 古来、宗教はその答を出すものであった…

静思湧言

心身一如-病んで御座そうろ。 人類は成熟を好まないフシがある リッター当りどれだけ走るか-これが男子の本懐。 ボヤキ漫才と評論は、紙一重。 創造力は好奇心とこだわりと、遊び心を素材にする。 低成長が経済から人間へ波及する。 自信を持たずに生きる…

釈尊の聖言 「完全に知る」

釈尊の聖言 清浄の行いをなすは人々をあざむく為ならず、むだ口の為ならず、尊敬と名誉と利益の為ならず、自らを調え諸の悪を捨てんが為なり。完全に知らんが為なり。 「完全に知る」 釈尊の仏教は、何のためにするのかと常に目的が正される。家の先祖からの…

経集 81

81 偈を唱へて得たる食は我が食すべきに非ず。婆羅門よ、この偈による受食は諸正見者の法に非ず。偈を唱へ得たる食を諸佛は斥けたまふ。婆羅門よ、浄法ある時は、この行乞が諸佛の生活法なり。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 四 耕田婆羅堕闍…

原始仏教講座 第五講 その十三

第五講 その十三 南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏、南無大師遍照金剛という話は聞いたけれど、三宝というのは聞いたことがないということなんですね。そうお経に書いてある。はてしなき時をすぎても三宝のみ名を聞かずと、あらゆる功徳、色んな事をやって、い…

静思湧言

何故自己が見えにくいか-生きにくくなるからだ。 日本産業界の狙いは軽・薄・短・小。カニは甲らに合わせて穴を掘る。 日本中が非行だ、教育だと、これは平和の象徴か。 週五日制になれば、またまた忙しくなるぞ! 生き方の原点-立腰静思。 文明とは、自動…

直信者の在り方

「直信者の在り方」 直弟子という言葉はあるが、直信者という言葉は恐らく無いであろう。釈尊の時分には、直弟子は出家者であり修道をする者であった。いわゆるビクでありビクニ(尼)である。信者は修道をしてもよいが、一般には信仰と浄施をする在家者とな…

経集 80

80 其の如くこの耕耘が行はるなれば、そは甘露の果を致す。この耕耘を行ひて後は、一切の苦より解脱す」。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 四 耕田婆羅堕闍経 二八頁) この耕作はこのように耕作され、それはまことに甘美な実を結び、この耕作…

釈尊の聖言 「恥じる心」

釈尊の聖言 ビクに熱心がなく恥ずる心なくば、正覚を得、ニバーナに入り、無上の安らぎに至ることなし。 「恥じる心」 仏教に限らず、ある程度を極めるためには熱心さが要る。特に仏教は人間として可能な限りの高度なというか、理想的な境地をめざすのだから…

原始仏教講座 第五講 その十二

第五講 その十二 ここが大事な所なんですが。仏になるという話はどういうことか?ということなんです。そこを今からお話するわけです。その普通の人は、この罪の衆生はというですね、皆さん罪の衆生なんです。何の気なしに生きてきたというんだったら、もう…

経集 79

79 精進は我が荷駄牛にして、我を瑜伽安穏に運載し、行きて退転あることなく。其処に至らば愁ひなし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 四 耕田婆羅堕闍経 二八頁) 努力が私にとってくびきをかけた牡牛であり、これが究極の安らぎへと連れてい…

親と子の道

「母父は五つの事をもって子より奉仕せらる。『よく育てられしわれは両親を養うべし。両親のために仕事をなすべし。家督を相続すべし。財の相続を正しくすべし。またもろもろの死者の霊位に対し、時に応じたる供養をなすべし。』と。 父母は五つの事をもって…

静思湧言

人間成熟度-自己×時間×投資。 人間とは本質プラス惑質。 自然主義の限界は自己意識が弱いということ。 かっての農業は勤勉を育て、これからの工業は能率を作る。 勤勉も能率も人間の属性として価値であるが、それを本質とした時、人間を喰い殺す悪魔になる…

釈尊の聖言 「熱心」

釈尊の聖言 ビクに熱心がなく、恥ずる心なくば、正覚を得、ニバーナに入り、無上の安らぎに至ることなし。 「熱心」 ビクとは出家の修行者である。出家とは持ち物として三衣一鉢、つまり最低の修道着(衣の事であるが本来は儀礼用に着るものではない)と托鉢…