横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その六)

先生は以上の如く苦学修養すること四年にして、一日忽然として「吾之を得たり」と言って、其の得たる所を頒つべく家塾を開き、先生の学徳を慕い来る藩士郷士の子弟を教授することにした。

その塾は小楠堂と名づけられ、はじめは微々たるものであったが、段々と盛んになり、他藩からの入門者もぼつぼつあるようになって、師も弟子も一体となり精進究学につとめた熱心さは江戸あたりのありふれた学塾などでは決して見られないものがあった。

その先生の教学観や、弟子の教導振りや、先生と子弟との間の情誼の濃やかさ美しさは全く小楠堂独特のもので、それらについては特に述べて見たいことが沢山あるが、時間が許さぬので後日の機会に譲る。
 
先生は酒失のため帰国してから、或は実学の同志と練磨し、或は子弟を教導している間にまる十一年の歳月がすぎ去った。江戸遊学の時から見聞を広めるべく諸国漫遊を計画していたその念願は寸時も脳裏を離るることはなかったものの、帰国後数年間はその実行は思いも寄らなかったが、天下の形勢は弘化に入ると共に外国船の渡来頓に頻繁となり、内外共に漸く多事となり、経国安民に心ある者の晏如たるを許さぬ状熊となり、此の情勢は久しく抑えられていた先生の漫遊熱に拍車をかけた。

加之門人の数が多くなるにつけてその謝儀による収入も増し、又その門人の中には臨時の出資も喜んで負担するものもあったので、いよいよ決行することになり、藩府の許可を得て、嘉永四年二月愛弟子徳富熊太郎(一義)と長岡監物の家臣笠安静を連れて上国遊歴の途に上った。

先生時歳四十三歳。此の遊歴は柳河・久留米を経て下関から山陽道を東して大阪に出で、近畿を巡歴、東海道は名古屋に止めて北陸道に廻り、福井・金沢に至り、都合二十一藩、約半歳の旅寝を重ねて同年八月帰国した大旅行であった。此の一行では、各藩に於て風俗・制度・施設・財政等の実状を観察するは勿論、力めて名ある学者や為政家などに面会して意見の交換をなすと共に、書物の交換につきても相談し、或は百工・技芸・農商の人連とも咄合ったり、或は名所旧蹟取分けて忠臣義士に由縁ある土地を訪うてはそこから竹木土石塊を携え帰りて精神発憤の資となした。その状況は、先生が途中京都から長岡監物に贈った「遊歴聞見書」や、隨行の徳富が丹念に書いた「来遊目録」に詳記してあって、興味ある事実が沢山あるけれども、これも割愛するが、此の旅行中最も長く滞在した処は名古屋と福井であった。

先生の家は前述ぶる如く名古屋の横井家の流れであるので、此処では同姓横井家を訪うたり、菩提寺に詣でたり、同家の系図を調べたり、祖先傅来の宝物を見たりなどして半月間も滞在し、福井では、同藩士の三寺三作が嘉永二年に二十日間も小楠堂に在って先生の講義を聞いたことがあり、又此回の放行で此の地に来るまでに、京都では同藩士岡田準介と度々面会し、大阪では橋本左内と二度も会見したので、それ等の人達により先生の人材なることが聞えていたから先生の来福を歓迎し、一行を家老の別墅に請じて藩費で賄うなど貴賓として待遇し、又藩儒吉田東篁をはじめとして篤学の士から教を乞われ、欣慕の情切なるものがあったので、二十余日も足を止めた。此の後に述べる同藩えの先生招聘の因縁は此の時に於て結ばれたともいえる。