2010-12-01から1ヶ月間の記事一覧

結果が明白な釈尊仏教

「結果が明白な釈尊仏教」 小学生でも自分の学業の結果を知りたいものである。そこで自己確認をしたり、反省をしたり、次の励みともする。成績表を軽くあしらったり、点数だけで云々するようではまさに親業失格。つまり結果は単に可能性を意味するのではない…

釈尊の聖言 「三種の希望」

釈尊の聖言 ビクらよ、ビクに希望なき人と希望ある人と、希望を超えたる人の三種あり。希望なきビクとは戒を守らず、性質悪しく、清浄ならず不信の行為をなし、なしたるを包みかくし、シャモンの如くふるまい、心腐れて欲に満ち、他のビクの煩悩を滅ぼし、覚…

原始仏教講座 第六講(最終講) その十

第六講 その十 信者のあり方。今までは全部むしろ宗教者、プロの話だったわけです。ところが日本仏教には信者の話がないんです。信者の話を三宝聖典第三十一項 浄福という所で説明いたします。浄福、これは信者のあり方です。阿含経にあるわけです。南方、タ…

経集 89

89 諸の善務の装ひをなして、衆中に跳入し、傲慢にして在家を汚し、?ありて自ら制せず、虚談をなして、殊勝げに行ずる者が道を汚す者なり。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 五 淳陀経 三四頁) 正しい行ひをしている者のように見せかけて、内心…

尊信のある民主主義

「尊信のある民主主義」 日本の政治あるいは政治家に自浄能力が作動するか、と誰が本当に考えるであろうか。まあ困ったものだ。だがあまり変りばえはしないだろう−とまあ大方の人が他人ごとのように考える。 それはこの民主主義的?政治形態及び政治家を自分…

釈尊の聖言 「三つの所」

釈尊の聖言 ビクらよ、王が自己の生まれたる所と潅頂を受けて王となりたる所と、戦場にて勝ちたる所の三つの所を生涯忘れざるが如く、ビクも又、三つの所を記憶すべし。ひげと髪をおろし、黄衣をつけ、家を出でてシャモンとなりたる所と、これは苦、これは集…

静思湧言

蛍光燈の下にワビサビはない。 早起きは三詩の得。 立腰の価値認識は四十から。 食への取組みは思索の原点。 無音の音は思想の浄化。 幸福は不幸を介添えにする 己に足らざるを、感謝する。 勿体ないを、死語にしてはならない。 たまには追いかける事もある…

原始仏教講座 第六講(最終講) その九

第六講 その九 これは本来は親孝行の道だから信者さん自身がすべきものです、ところが信者さんがしても、死んだ人は何処行ったか分らない、生きている間にそんなに仏教の勉強学習あまりしてませんから、行き先分らない、行き先分らないから、ご飯をあげた位…

活き活きとした信仰

「活き活きとした信仰」 (三宝法典 第二部 第六十項 王子と法義説)『小次郎、破れたり』と武蔵が釘をさした一節を思い出す。こんな比較をしてはお釈かさまに対して申し訳ないが、ここの所を拝読するたびに、いかにも信仰が活き活きとしたものであった事を…

釈尊の聖言 「衆生の不利不幸」

釈尊の聖言 ビクらよ、名のあらわれたるビクは三つの法によりて多くの衆生の不利不幸となる。 三つの法とは、他をして法にかなわざる身口意の三業をなさしむることなり。 「衆生の不利不幸」 仏教者にとってこれは又、何ときつい言葉であろうか。仏教者は衆…

原始仏教講座 第六講(最終講) その八

第六講 その八 次に行きます、先祖供養の話を本来は「縁」の所で、入り口の話ですべきでしたが、時間をカットしたために抜きましたので、ごく簡単に。 先祖供養というのは宗教ではないということです。日本では坊さんがお経をあげて、先祖さんにお経をあげる…

経集 88

88 自ら制して念あり、無罪の句に親しみつゝ、法句の善説せられたる道中に生活する所の者を、第三の比丘たる道による生活者と云ふ。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 五 淳陀経 三三頁) 充分に説き明かされた真理の言葉を、道として生き、自ら…

真のリーダー

「真のリーダー」 釈尊の仏教が、多くの信仰や宗教との違いを見せるのは、開祖である釈尊自身が真のリーダーであるという事である。人間を超絶した偉大な力や絶大な愛を持つとされる神や仏けを、信仰の対象とする宗教においては、その対象をリーダーと考える…

釈尊の聖言 「法施」

釈尊の聖言 「法施」 ビクらよ、われは乞うものに施し、いかなる時も施す用意ある覚りの身、無上の大医者なり。 おんみらはわが子、法より生まれ、法の相続者なり。財の相続者に非ず。 ここに財施と法施との二種あり。法は常に財にすぐれたるものなり。 「法…

原始仏教講座 第六講(最終講) その七

第六講 その七 四弘誓願ということは、宗教活動をしなければならないという決意を中心に言っているものです。これは何も坊さん宗教専門家でなくて信者においても、その方向にあるべきだし、信者さんがもしそれが出来なければ、そういう宗教活動をする人を支…

四段階の静思

「四段階の静思」 釈尊仏教の中核は八聖道、八聖道の中核は正見・正定 (正見は正しい考え方−正定は正しい成り切り) 原始仏教という云い方はかなり一般化してきている。それを聞いて異様に感じる人はむしろ少ない。だがこの名称には注釈が要る。 何故ならば…

静思湧言

酔生夢死への予防注射法制定セラル。 昔お上りさん―今お下さん。 国家の価値は地方主流への貢献度。 兵役の義務がないから平気? 耳鳴りとは成熟への地鳴り。 日本には今後も出来ない遊歩道。 男女同権とは皆、忙がしくなるコト。 海亀は産み放し。大らかに…

釈尊の聖言 「衣のすそ」

釈尊の聖言 ビクらよ、たとえばビクがわが衣のすそを取りて後に従い、わが足もとを踏むとも、かれ欲深くして心乱れてあれば、かれはわれより遠し。何故なれば、かのビクは法を見ず、法を見ざるものはわれを見ざればなり。 又、ビクがわれより百里はなれてあ…

原始仏教講座 第六講(最終講) その六

第六講 その六 日本のは全部、建前と本音違うのが当り前になっている。不思議と思わない。アメリカ人は不思議と思う。アメリカの建前は。だけど矢張りアメリカも、貿易問題などになると建前と本音食い違っているでしょう、自由貿易と言いながらも保護貿易や…

経集 87

87 この佛教中にて第一なるを第一と知り、この佛教中にて法を説き分別し、疑を断じたるかの不動の牟尼を、第二の牟尼たる道の説示者と云ふ。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 五 淳陀経 三三頁) この世界で最高のものを最高のものと知り、正に…

釈尊が説く法句経

「釈尊が説く法句経」 ものみな心を先導とし、心を最上とし、心よりなる。清き心にてもの言い、かつ行うなれば、形に影が従ごうがごとく、楽しみが従いきたるなり。 『心次第』 自分の心が何かに強制される 自分の心が何かに束縛される 自分の心が何かに不安…

釈尊の聖言 「われは知る」

釈尊の聖言 バッタリよ、われは永き間、おんみの心を知りぬき、おんみがわが説法に対して熱心にあらず、耳を傾けざるを知れり。 「われは知る」 これはまた何という直接の言葉であろうか。仏け様とは慈悲の、すべてを抱きかかえて下さる方と思ってきた。確か…

原始仏教講座 第六講(最終講) その五

第六講 その五 もっとも高まりばっかしでは駄目なんですね。いくらのぼせ上がって、何を言っても手段方法がなければ、自分の体験を全然伴わないならば、受け売りしかできない。受け売りでは迫力がない、だから気合ばっかり掛けても本当の導きにはならない。 …

静思湧言

文化の問題点は限りない分化だ。 文化の方向は非文化に問わねばならない。 文化の極は自然が拝めるという事。 豊かさを丸どりすれば、麻薬になる。 都市の価値は地方への貢献度。 死とは放棄還元のご催促。 生き方とは何に喜ぶかの追求。 自戒三要―足が地に…

在家者の修行

在家者の修行 (一善友)−「六十からの熟成」「解脱」「新鮮の導入」の道詩を読み、目からウロコが落ちる様にはっきりいたしました。涙が止まりません。テレビ「こころの時代」を聴いておりましても実によく分かる様になりました。「求めると与えられる」と…

釈尊の聖言 「正法と戒」

釈尊の聖言 バッタリよ、人々の行いおとろえ、正法はかくれて戒律ますます増大し、覚りを得る者ますます減少す。 サンガが大となり、所得を増し、讃仰の度高まりて数が増し、年数を加えなば煩悩生じ易くなるなれば、それを防がんが為に戒律を増すなり。 「正…

原始仏教講座 第六講(最終講) その四

第六講 その四 法門かぎりあらずとも、というのは、法門というのは、法、門は入り口、法の教の門が幾通りもあると、南無阿弥陀仏のお浄土の系統もあれば、座禅の様な系統もあると、あるいは真言宗もあると色々な法門、入り口はある。法門かぎりあらずとも、…

経集 86

86 疑惑を度り、煩悩の箭を離れ、涅槃を楽しみ、隨貪あることなく、天を含めたる世間の導師、斯る人を諸仏は道による勝者と言ふ。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 五 淳陀経 三三頁) 疑いを離れ、苦しみを去り、涅槃を楽しみ、貪りを超えて、…

解脱後の自殺

「解脱後の自殺」 『正善聖の人生』 体の病い心のゆがみを直して生きる それは環境に振り回されない人生である 自分のペースでゆく正しい生き方である 自分なりの信条仕事観をもって生きる それはまさに輝かしい不惑の人生である 単なる幸福以上の善なる生き…

 釈尊の聖言 「森に住す」

釈尊の聖言 われは二つの理由にて今曰も森に住むなり。一つはみずからの現在の生活の安らぎのためにして、一つは未来の衆生をあわれみ。手本を示さんがためなり。 「森に住す」 森に住むとは一種の野宿である。インドの暑いい所だから可能ではあるが、信者の…