横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その一)

 3 小楠先生の生涯
 
これから小楠先生の生涯について述べるが、私の小著「横井小楠傅」でも、これに菊版で約千三百頁を要しているから、短い時間ではとても話し尽くされぬので、大いに省略することにする。又先生の私生活殊に家庭人としての先生については頗る興味もあり、また大いに教訓になることもあるが、これも割愛し、主として公的生活の一端を話すことにする。そしてこれから述べる年月はすべて大陰暦で、年齢は旧慣の数え年に依る。
 
先生は今より百四十年前の文化六年八月十三日、横井大平(時直)の二男として熊本市の内坪井町に呱々の声をあげた。三人兄弟で兄を左平太(時明)、弟を仁十郎と称した。先生は通称を平四郎、実名を時存(「トキヒロ」とも「トキアキ」とも「トキノリ」とも読まれている)字を子操と称し、畏斎・小楠・沼山はその号である。此の名と号の中で、他を圧倒せんばかりに有名になっているのは小楠で、これは楠正行即ち小楠公の人と為りを景慕して自らつけたものである。
 
先生の家は北條氏を遠祖とし、尾張横井家の流れで、代々肥後(熊本)藩主細川氏の臣である。
 
肥後藩士の秩禄には旧故と新知の区別があって、前者は慶安二年以前からの知行取りで、親の跡目を其のまま襲ぎ得る所謂世襲禄だが、後者は慶安三年以後に取り立てられたもので、父の勤労と子の材能如何によって相続高が斟酌された。此の制度は宝暦六年細川第八代の英主重賢(霊感公)の英断によって定められたもので、この以来藩士子弟間に精紳作興の実大いにあがり、家名を重んじて文武両道に精進するの気風が旺盛となった。