2010-03-01から1ヶ月間の記事一覧

三宝法典 第二部 第七三項 リチャービー人への教え

リチャービー人への教え 時に世尊、ベーサーリーを去りたもうに、身をめぐらし城をかえりみてほほえみたまえり。 「アーナンダよ、これこの城の見おさめにして、再びこの城に入ることなからん。」 ビクらこれを聞きて悲しみ歎けり。この噂はリチャービー人の…

釈尊を伝える

『釈尊を伝える』 私に何がしかの取り柄があるとすれば 釈尊の思想行動を他に伝えることだ 二千五百年前の一宗教者の生き方をだ 人間としての最高可能な知恵に達し 人間としての最大広深な友愛心に溢れ 人間としての生き方を全うされた釈尊 人それぞれがそれ…

おりじなる童話  かげぼうし

吉永光治のおりじなる童話 かげぼうし そらに おひさまが ぎらぎら ひかっていました。 にわに みかんが たくさん なって います。 こどもたちが みかんを みあげて いいました。 「おおきいな」 「たべたいな」 「いいにおい」 うれしそうな こどもたち う…

釈尊の聖句 36

36 極めて見難く極めて微妙にして欲に随いて趣く心を、賢慮ある者は護るべし。護られたる心は安楽を齎す。(南伝大蔵経第23巻 小部経典一 法句経 三 心品 22頁) 「び妙な欲望」 みにくことかたく、び妙ににして、欲のまゝにおちこむこの心を、賢き者…

三宝法典 第二部 第七二項 入滅の予言

入滅の予言 時に世尊、ベーサーリーに托鉢なし、食事を終えてチャーパーラのやしろに向かいたまえり。 「アーナンダよ、われ(背の痛みを覚ゆれば)チャーパーラにて日中の休息をなさん。」と。 世尊、座につかれ一方に坐せるアーナンダに仰せられたり。 「…

おりじなる童話 いす

吉永光治のおりじなる童話 いす ぼくが いすに すわって マンガを よんでいたら 「けんちゃん」 だれかが ぼくを よんだ。 「なあーに」 ぼくは ふりかえった。 へやには だれも いなかった。 「おかあさん ぼく よんだ?」 だいどころに いって きいたら 「…

釈尊の聖句 33 

33 賢慮あるものは、戦慄し護り難く制し難き心を直くすること、宛ても箭匠の箭に於けるが如し。 (南伝大蔵経第23巻小部経典一 法句経 三 心品 22頁) 「矢を直す」 おそれおののき、動ようし、守りがたく、おさえがたき心を、賢き者は正しくす。矢作…

三宝法典 第二部 第七一項 二大弟子の入滅

二大弟子の入滅 時にサーリプッタは静思より出でて思えり。 「過去の諸仏におのおの上座の弟子あり。かれらその師に先だちて入滅するをつねとせり。われもこの七日のうちに、世尊に先だちてゆかん。されどわが母いまだ仏法に帰依なさざれば、これより行きて…

解説とは何か

「解脱をぬきにした仏教はない」 解説とは何か このように到達結果が四通りもあるということは何か仏教の不完全さを意昧するように思われるかも知れない。しかし釈尊は、現実の人間のありのままから出発し、修道の結果も実際に即したものであって、単なる観…

解脱は誰が得るもの

「解脱をぬきにした仏教はない」 解脱は誰が得るもの こゝで釈尊のおことばによる聖典に帰ろう。異教徒のバラモン修行者が来て問う。仏教に於いて真にニバーナ(解脱)を得たビク(修行求道者)が居るのか?と。釈尊は沢山居ると答える。ビクニ(尼)でも同…

解脱軽視の日本仏教

「解脱をぬきにした仏教はない」 解脱軽視の日本仏教 日本に伝えられた大乗仏教とされるものは、ニバーナ(ネハン-真理体得による解脱)では駄目だと批判から出発するものである。もう少し詳しく云うと、解脱という自己一身の苦しみを解決したという心境に…

釈尊の聖句 26

釈尊の聖句 26 痴鈍愚昧の輩は放逸に耽り、賢愚ある者は不放逸を護ること、最上の宝を護るが如し。(南伝大蔵経第23巻小部経典一 法句経 二 不放逸品 21頁) 愚かなる者は、わがままにふけり、賢き者はわがままならざるを守ること、財産を守るがごとし…

三宝法典 第二部 第七〇項 解脱を得たる者

解脱を得たる者 時に世尊、ラージャガハのガランダ竹園にましませり。トクシタバラモン来たりて問いたてまつれり。 「ゴータマよ、教団のビクにして一人にても、真にニバーナを得たるものありや。」 「バラモンよ、ただ一人、二人ないし五百人のみならず。あ…

弟子と信者の種々相 (下)

在家道としての「人間らしさ」 先の慈雲尊者が、「人間らしさ、人間になれ」という在家指導になったのは、その人柄もあるが、原始仏教経典(アーガマ)に馴染み、釈尊仏教のあり方を歴史的事実として捉えることが出来たからであろう。大乗経典だけしか知らな…

弟子と信者の種々相 (上)

常識を土台とせよ ある宗教団体で、二千組もの集団結婚が、教祖の霊感的指名によってなされて有名?になつたことがあるが、これを常識線上のものとは思えない。熱心ということと狂信は全く違うはずである。それは常識を土台にしているかどうかである。常識と…

釈尊の聖句 25

釈尊の聖句 25 奮励により、不放逸により、自制により、また調御により、賢慮ある者は瀑流(煩悩)の侵すことなき洲(避難所)を造るべし。 (南伝大蔵経第23巻小部経典一 法句経 二 不放逸品 21頁)努力向上により、わがままならざるにより、自制によ…

三宝法典 第二部 第六九項 師の秘伝

師の秘伝 アンバパーリーの施食を受けられし世尊は、さらにアンバパーリー林を受けられ、しばらく留まりて、種々の法を説きたまえり。 み心のまま、アンバパーリー林に留まりたまいし世尊は、アーナンダとビクらを伴いてベールバの村に向かいたまえり。 時に…

原始仏教の特長

原始仏教の特長 「原始仏教の特長」仏教を思想として云々するのもそれなりに有益ではあるが、信仰や宗教にはならない。ハンニャ心経を思想として読むのでは哲学にしかならない。もし体得となればその方法が必要だが、心経にはそれがない。 「仏教を思想とす…

結果が明白な釈尊仏教

「結果が明白な釈尊仏教」 小学生でも自分の学業の結果を知りたいものである。そこで自己確認をしたり、反省をしたり、次の励みともする。成績表を軽くあしらったり、点数だけで云々するようではまさに親業失格。つまり結果は単に可能性を意味するのではない…

行く先を決定せよ

師の意味 仏教は、社会的事業の価値評価に従うものではない。いかに慈善事業を行うとしても、その人の心が名誉心や支配欲などで汚れていれば、その人について仏教的価値があるとは見ない。社会的にどんなつまらないような仕事をしていても、その人が、仏教上…

三宝法典 第二部 第六八項 法の鏡

法の鏡 世尊はコーティ村にいたり、林に入りてビクらに法を説きたまえり。 「ビクらよ、四聖諦を悟らず、通ぜざるがゆえに、かくのごとき長き間、われもおんみらも共に流転し輪廻したるなり。されどビクらよ、この苦集滅道の四聖諦を悟り、これに通じたるが…

おりじなる童話 いちまいの え

永光治のおりじなる童話 いちまいの え ぼくは おとうさんと えの てんらんかいを みにいった。 てんらんかいは ひとが いっぱいで うしろから おされながら えを みていた。 「あれっ」 おとうさんが ぼくの そばから いなくなっていた。 「どこに いったの…

行く先を決定せよ

行く先を習う 自分の本当にやりたいことが出来るなら、これほど幸せなことはない。しかしこの本当にやりたいこと、人生の目的、行く先を決定することは容易でない。それは己を知ることが容易でないからである。多少、才能を持つ者は、過信しやすいし、才能の…

三宝法典 第二部 第六七項 ゴータマの渡し

ゴータマの渡し 時に世尊、アーナンダを呼びたまい、 「これよりアンバラテイカー園に行かんごと仰せられ、ビクらをともない、ラージャガハを出でて北なるアンバラティカー園に向かいたまえり。 世尊はアンバラテイカー園の王の家にとどまられ、ビクらに法を…

「尊信のある民主主義」(下)

「尊信のある民主主義」(下) (一善友)―私はまず「自分の在り方のより所」がほしいのです。仏教の事は全く分からないので、現代仏教入門という本を読んでいます。あまり分かりやすくはありませんが、法こそより所とあります。今は哲学的な本を読むのを止…

「尊信のある民主主義」 (上)

「尊信のある民主主義」(上) 日本の政治あるいは政治家に自浄能力が作動するか、と誰が本当に考えるであろうか。まあ困ったものだ。だがあまり変りばえはしないだろうーとまあ大方の人が他人ごとのように考える。 それはこの民主主義的?政治形態及び政治…

「釈尊仏教とは三宝帰依なり」 信とは帰依

信とは帰依 釈尊は仏教の開祖であり、真理を説く教祖である。仏教を開くということは、人々を教え導きたいという大慈悲、つまり心情、欲求である。教えるとは、真理を教える、つまり知能の徹底・了解をはかるということで、大智・知能の働きである。この大智…

三宝法典 第二部 第六六項 七つの衰えざる法

七つの衰えざる法 時に世尊、ラージャガハのギッシャクータ山にとどまりたまえり。 マガダの国王、アジャータサットは隣国のワッジー国を攻めんとして雨行大臣に命じたり「雨行よ、おんみは世尊のみもとに参りてねんごろに挨拶なし、わがためにみ教えを請い…

信者の五法

信者の五法 仏教の在家信者としては、三宝を信じるだけで信者として認められる。日本の場合は仏け様かご本尊様を信じれば信者という事になるが、その中味を聞き知るという事があまりなく、むしろそのお救いやご利益を与えて下さる、その力を信じるというのが…

直信者の在り方

「直信者の在り方」 直弟子という言葉はあるが、直信者という言葉は恐らく無いであろう。釈尊の時分には、直弟子は出家者であり修道をする者であった。いわゆるビクでありビクニ(尼)である。信者は修道をしてもよいが、一般には信仰と浄施をする在家者とな…