横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その六

話少しく変って先生は大の亜米利加贔屓であって、特に二甥を米国に遊学せしめたのである。それにはいろいろ理由もあろうが、その国状が気に入ったからであろう。特に日本の国体をそうしようとまでは考えなかったけれども、共和政治の価値をたしかに認めたことや、その国の元祖にワシントンがあって世界の平和に力めていたことも与って力があると思う。
 
先生はワシントンを或は白面碧眼の堯舜以後の第一人物と云い、或は堯舜以来の聖人或は優る所あるやもしれぬと云つて其の人物に私淑傾倒した余りに、ワシントンの肖像を亜米利加から取寄せて、自分の家は勿論、門弟の家の?槌間に掲げしめた。かく先生がワシントンを推称した理由は那辺にあつたか。

先生自からワシントンについて書いた文章は無いが、先生と異体同心の元田東野は「華盛頓賛」なる文を書いている。その中にはワシントンが英政に苦しめる民を救うべく英軍と戦い遂に米国に独立不羈の国是を定めたる其の義気と其の徳義心厚くして特に功利心の無かった所を絶賛している。

小楠先生の意中も亦之と合致していると思うが、ワシントンが列国に対し極力親善平和政策を執り、世界に戦争を無くすることに力を濺いだことも其の理由の一つだと思う。
 
元治元年井上梧陰は沼山津の草廬に先生を訪い、先生の卓見を叩きつつ一問一答したのを自ら筆記して「沼山対話」と題しているが、其の中に欧羅巴などに戦争の起るのは各国に割拠見があって、それぞれ自国に都合のよいことを主張する故であるから、此の割拠見さえ無くば戦争は起らぬと云うことを述べた処に「真実公平の心にて天理を法り割拠見を抜け候は、近世にては亜米利加ワシントン一人なるべし、ワシントンの事は諸書に見え候通り、国を賢に譲り、宇内の戦争を息るなどの三個條の国是を立て、言行相違なく是を事実に践み行ひ、一つも指摘すべきことは無之候とあり、又元田東野の「沼山閑話」の中にも「西洋通信以来相当の歳月を経たれども、此の邦の人情を知らざるが故に兵庫の開港談判も長引き双方の事情通融しない。

苟くも人情に通ずれば戦争の惨毒は止む筈だ。ただワシントンのみは此の見識があった。西洋の列国も此の見識がなければ百年河清を待つが如く、いつまで立っても戦争の絶ゆる時はあるまい」とあり、又慶応三年亜米利加にある二甥に与えた書面中にも「西洋列国是迄有名の人物を見候ても、アレキサンデル・ペイトル・ボタマルテ抔の類、所謂英雄豪傑の輩のみにて、ワシントンの外には徳義ある人物は一切無之、此以来もワシントン段の入物は決して生ずる道理無之、戦争の惨憺は以甚敷相成可申候」とある。

かくの如くワシントンの事を記した所には必ず戦争防止の事があるのを見ても、ワシントン尊敬の理由には彼の世界平和に力めたことが加わっているに間違いないと思う。
 
是迄述べた所によると、先生は国際協調主義者でもあり、世界平和主義者でもあったが、なお先生は霊物一如論者であって、霊と物とは裏と表で、心あらば必ず外に現われる、一つの事をするにしても、二つの物を拵えるにしても、一つの議論を立っるにしても、心の誠からやるべきで、そうすれば又必ず立派なものが出来る。人が銘々大義を四海に布くの精神を以て世界平和を招来せしめんとする心あらば、必ず平和を実現するとの見地に立っていたので、恰かも今日の「ユネスコ」と一致している所もあった。
 
欧州大戦以後にも国際連盟とか、世界軍縮会議とか、或は不戦條約とかが行われて居り、最近に至りてはかの世界的学者たるアインシュタインは、戦争を不可能とし、国際的問題を法によって解決するに足る国家を超え強い秩序の創設即ち世界政府の樹立を強調し、米国はもとより英・仏・その他の学者・文化人・政治家によつてその具体化が促進されようとしているが、小楠先生はかかる種々の戦争防止、平和工作の意見を、すでに今から百年前の幕末内外多事の際に、しかも最も国際情勢に鎖国日本の小天地に於て主張したのである、これはたしかに一つの世界的驚異と云わなければならぬ。

佐久間象山が皇国をして五大洲の宗たらしめんと説いた大経綸とは別の立場に於て先生の偉大さがある。ここが先生の一大先覚でもあり東洋の偉人でもある所以であって、先生の学問と見識は今日の時代に於ても我々を啓発するところ実に甚大であると思う。
 
先生はかかる卓見を心の中にしまいこんでいたのでなく、これを忌憚なく吐露したのである。元田東野は当時すでに開国の説を抱いてはいたが、小楠先生から開国論、世界平和論を聞かされて大いに其の卓見に敬服し、之を彼と先生との親友である荻昌国に語ると、荻は「小楠の開国論は八十二斤の青龍刀だ、之を振う者は小楠の外有るべからず、君の如きは此の論を筺底に埋在して決して出してはならぬ」と戒しめたので、東野は之を服膺し、会て人に向って喋々しなかったが、後来攘夷の説ますます盛んになり、開国論者はすべて佐幕家と敵視されて身の殃を招いたのを見て、荻の戒めは自分の薬石となったと其の手書中に記している。

当時やや識見あるものは荻や東野の如く皆口を緘して言わなかったが、小楠先生は時と場所を顧みずその青龍刀を盛んに揮ったので遂には兇刄に殪れたのである。

我々は危地逆境の中心にあるも夷然として意に介しなかった先生の態度に対しても、憂国の熱情に対しても深甚の敬意を払わねばならぬ。

今回の第二次戦争前に於て、我が国にも戦争防止の意見を持っていた人は少くなかったであろうが、其等の人々が小楠先生の如く天理人情の妙理を根拠として戦争の破棄すべきを唱え、之を忌憚なく勇敢に吐露したならば、或は戦争は起らずして今日の敗戦の惨めさも見ずにすんだではないかと思うと遺憾に堪えぬ。

しかし、我々は小楠先生の如く、過ぎ去ったことをくよくよ考えても仕方がない、今は禍を転じて福となすことに努力せねばならぬ。

日本は今や武力を捨てて文化の力にすがって立ち上ろうとしている。日本ほど世界平和の工作をなすのにふさわしい国はない。我々は皆一致して先生の所謂割拠見なるものをすて、天下公共の大道によりて自ら平和国家を建設すると共に、世界に平和を招来せしめねばならぬ。国民の一人々々が自覚して其の力を結集すれば決して不可能のことはない。

私は考える、地球上最初の原子爆弾に見舞われた広島に平和塔を建てて、この惨害が再びほかの国土、ほかの人類の上に襲われることのないようにと冀いつつ、世界の平和を祈念するのは無論意義のあることであるが、私は今より百年前に於て、すでに世界平和を提唱した大先覚者たる小楠先生の生国なる熊本に於て、或はその生誕地なる内坪井町か、或はその旧宅の残つている沼山津かに、一大平和塔を建てて、先生の卓見を偲びつつ、平和日本の建設に精進するのも亦大いに意義あることと信ずるが、諸君には如何に考えらるるであろうか。(おわり)

   中興の立志七条
    小楠先生参与拝任後の書。固より献言の文体にあらず、或は謂う
    主上御壁書の草案の大要を摘記せしものならんかと、或は然らん。
一 中興の立志今日に有り。今日立ことあたはず、立んことを他日に求む。豈此理あらんや。
一 皇天を敬し祖先に事ふ、本に報ずるの大孝なり。
一 万乗の尊を屈し匹夫の卑に降る。人情を察し知識を明にす。
一 習気を去らざれば良心亡ぶ。虚礼虚文、此心の仇敵にあらざらんや。
一 矯怠の心あれば事業を勉ることあたはず。事業を勉めずして何をか我霊台を磨かんや。
一 忠言必ず逆ひ、巧言必ず順ふ。此間痛く猛省し私心を去らずんばあるべからず。
一 戦争の惨憺万民の疲弊、之を思ひ又思ひ、更に見聞に求れば自然に良心を発すべし。