横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その三

先生の詩に「道に形態無し、心何ぞ拘泥あらん、達人は能く明らかにし了えて、渾て天地の勢に順ふ。」なる五絶があり、又勝海舟は先生が物に凝滞せずして機に臨み変に応じて物事を処理し、また人をして先生の意見を聞かしめた場合でも、其の答に、今日は斯う思うが明日になったら、どう変るかも知れないと申し添えてあったと痛く感心して居り、又「世の中の事は時々刻々変転極まりないもので、機来り機去りて其の間実に髪を容れない。こう云う世界に処して、万事小理屈を以て之に感ぜんとしても、それはとても及ばない。世間は活きている、理屈は死んでいる、此の間の消息を看破するだけの眼識のあったのは先ず横井小楠であった。」と推服している。

之によるに、先生の学問と識見とは片時も停滞すること無く、当初抱いていた志操も感情も時勢に感じて次第に変遷することは、たとえば山に登る者の一歩一歩登るに従いて展望の開け来るごとくであった。

なお先生が人に書き与えたものに「学を為すには須く今是にして昨非なるを覚るべし、日に改まり月に化する便ち是れ長進」と云うのもある。

此等によれば、先生の攘夷より開国えの思想の変遷は、先生に於ては寧ろ当然のことで、何等不思議は無いが、達人の少ない世間では、節操の無い変説者として先生を責めるもの少からず、同志や友人間にも大いに物議を起し、先生より離れ去る者続出した、然るに此の変説は先生の勉めて止まざるの見識がますます正鵠を得て来た当然の結果であるので、先生は周辺の毀誉褒貶などには毫も頓着しなかった。
 
先生が従来の攘夷論を一擲して忽ちにして開国論に豹変したのは、前述内藤の「北窓閑話」によれば「海国図志」によったとある、これも其の動機となっていようが、米のペリー、露のプチャーチンの来航、更に英・佛その他各国との開係が、我が国の国際場裡に於ける立場を甚だしく複雑困難ならしめて来たことに対する先生独特の鋭敏なる省察考究も亦与って力があったであろうと思う。さすれば、先生の開国論は如何なる原理から出発しているであろうか。佐久間象山の開国諭は前述の通り国防軍備の大経綸より発しているが、先生の開国論は何に根拠しているであろうか。
 
先生の書いた「夷虜応接大意」の中には「我国の外夷に処するの国是たるや、有道の国は通信を許し、無道の国は拒絶するの二つなり。有道無道を分かたず一切拒絶するは、天地公共の実理に暗くして、遂に信義を万国に失うに至るもの必然の理なり」とあり、又攘夷論が天下の与論でもあるが如く盛んに唱えられ、国民の多くが極度の猜疑と侮蔑とを以て外人を待つのに対しては「外人もまた一天の子ではないか。

然る以上は之を待つに天地仁義の大道を以てせねばならぬ」と喝破し、又水戸一派の保守的慷慨家に対しては「格別見識も無く、従って大策もな く、只大和魂とやらを振廻す人々は、外人を以て直ちに無道の禽獣となし、最も甚しきは初より之を仇敵視している、天地の量、日月の明を以て之を見るならば、なんと云う事であろう、この頑迷固陋が国家蒼生を過らんとすることは痛嘆限りなき次第である」と痛棒を与えている。

これ等によると、先生の開国論は啻に佐久間象山の理想たる国の富強を謀ると云うのみでは無くて、天地公共の実理、天地仁義の大道に根拠しているのである。