横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その八)

嘉永六年米使ペリー来航するや、弘化四年以来家老職を辞していた盟友監物は相州に於ける肥後藩警備地の総帥に起用せられたり、前述漫遊中萩にて尋ねたけれども面会するを得なかった吉田松陰が海外視察の目的を以て長崎に来舶中の露船に搭乗せんが為に江戸より同地に赴く途中熊本に立寄り幾回も先生と会見して熟話したり、四十五歳の此の年まで独身であった先生は妻帯したり、いろいろ喜ぶべき事があったが、翌七年七月には兄時明が左平太・大平の二男と「イッ」なる一女とをのこして、四十八歳の若さで病死した。

嗣子たるべき左平太がまだ十歳の幼年であったので、先生は順養子として同九月兄の知行そのまま家督を相続し、番方を命ぜられた。番方は知行取りの士分の事で、平常これという職務はないが、将来藩吏となって俗務に従事することになりはせぬかということは帝者の師を以て自ら任ぜる先生には少からね心配の種であった。
 
家庭的に兄を喪って悲痛に沈んだ先生は、翌安政二年三月社会的にも亦甚大な苦痛を重ねた。それは多年管鮑の交りともいうべき親しさであった長岡監物と学意上の問題から絶交するの已むなきに至ったことである。これについては述べたいことが多くあるけれども省略する。

此の事が動機となったとの説もあるが、表面上は家計不如意なる理由で、同年五月それまで住まっていた相撲町から熊本市の東南二里許りなる沼山津村に転居し、雅号を別に沼山と称し、居を四時軒と名づけ、塾舎も各門生の力で建設された。
 
村は広原を背にし、遥かに阿蘇の煙を東北に眺め、沼山津川が前を流れて、飯田山や甲佐嶽や木原山などの峰々が屏風をたてたように前にならびて、濶々とした景色だ。先生は此処に優遊閑雅、世俗の名利を超脱して、時には草廬に書を講じ、時には前の川に釣を垂れて太公望をきめ込んでいたが、それは決して先生の本心ではなかった。

時来れば必ず起って南陽の草廬を出で漢室を既倒に起さんとした諸葛孔明の意気で以て天下の大に任ぜんと志していたのである。

その居の玄関には孔明三顧の図の額が掲げられ、先生は口癖の様に「志を得れば」と云い云いしていたとのことである。