横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その七)

先生は此の遊歴によりて其の力量と識見に重きを加えたことは言うまでもないが、交歓した名士中先生の意に満てる者は寥々として晨星の如くであったと見え、国に帰るや杖を投じて「鳴呼天下の広き与に一人の語るべき者なし」と浩歎したとの事である。然るに流石の先生が大いに敬意を払った名士が一人あって、それは萩藩の村田清風(四郎左衛門)だったということが、西郷南洲の書面によってわかった。
 
西郷は明治三年故山に在りし頃、諸藩形勢の穏やかならざるより早くも此の大勢を洞察し、遠からず親政の令の布かるべき暁は自分も要路に立っものと覚悟し、天下の人心を統一するには日本六十余州の政治振りを知悉し、而して其の地方々々の民意に合致した政治を布かねばならぬと絶えず留意していたが、それには先ず自分が上京する以前に何人かに各地の政況を巡視せしむるの必要ありとして、薩藩の子弟中より坂元純煕を物色し、彼に宇内の大勢や海外の趨向などを懇切に説き、諸国を遍歴して具さに復命すべく命じた。その時西郷が坂元に与えた書面を読みあげて見よう。

熊本藩横井平四郎壮年の砌諸国遊歴いたし、国々人物を尋廻、人材と彼が目し候人に其後名を挙げざる者は無之、加州の長沼某と申者只一人其名顕はれざるよしに御座候。

夫故皆人横井の識鑑の高きを称し候よしに御座候。其経歴の節長州の村田四郎左衛門と申人に致面会候節、何等の訳にて天下を経歴いたし候か、其趣意如何と四郎左衛門問掛候由。然処横井相答候には、いづれ天下の政一途に出候様無之候ては只一国々々の政事にては不相済と心付、彼に長し候処も有之、是に得たる処も可有之候付、是非得失を考合、一途政体相居候念願に有之、遊歴いたし国政の善悪を視察いたし候旨申述候処、然らば其国に入り其政の善悪是非は何を以識候哉と相尋候処、先づ其国に到り士の容体質朴なるは必士風盛なる処。又町家の繁栄なる所は其国の富たる処。農政行届き民心を得候処は必仁政の行れ候処。此三條を目的にいたし、其事の挙候所は其国に人材可有之候付、其人に問て細目を正し本体を明め候処、多くは相違も無之趣申聞候処、今一事見処有之候が不心付哉と四郎左衛門申述候処、幾度も考合候得共不考当候付、如何様の所か頓と不考当候付、願くは教呉候様申述候処、市中に玩物多く売物有之候処は決て奢美の国に有之候旨申述候処、横井閉口いたし候由。此遊歴中に頭を下げ候人は村田一人にて有之たる由に傅承居候。(下略)
 
天下人無きに失望した小楠先生は帰来ますます奮励努力自ら国家の重きに任するの決心を固めたのであるが、実学党に対する藩政府の態度はやや緩和されたかに見えても、先生等の人気回復は未だなお程遠い状態で、藩ではまだ其の手腕の伸ばしようがなかった。けれども、先生は国家多事の際とて、常に天下の大勢に注目しつつ、長岡監物其の他の同志と相会合すると共に、宮部鼎蔵・永良三平等の勤王党諸士とも相往来して荐りに心を国事に砕いた。