2010-09-01から1ヶ月間の記事一覧

原始仏教講座 第四講 その二十一

第四講 その二十一 それではそれに行き着くにはどうしたらいいか、というのが道諦です。道諦は、その道、手段方法です、プロセスです。道諦は二バーナへいたる八聖道、正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定。先ほど中道のところで、中道すなわ…

経集 69

69 独坐と禅とを遺つることなく、諸法に於て常に法に随ひて行じ、三界諸有の過患を思惟し、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 二三頁) 独りの生活と冥想との中で、どんな事に当ってもいつも真理に従っ…

妻を超える

「妻を超える」 対機説法 「人を見て法を説く」−仏教は対機説法であるとよく云われる。対話であっても、セールスであっても、宗教上の正導であっても、学校教育であっても、子供の育て方であっても、相手がどんなであるか分らない事には、きり出しようがない…

釈尊の聖言 「水行」

釈尊の聖言 「種々の河に人々の悪業を清め、功徳を与うるの無益なる云い伝えあるも、こは人々の悪業に関わりなし。 バラモンよ、この教えに水浴し、殺生をなさず、盗まず、偽りを云わず、信仰を抱き、むさぼることなくば、これ真の水行にして河に関わりなし…

経集 68

68 第一義に達せんが為に勤精進し、沈滞の心なく懈怠の行為なく、固き努力あり、体力智力を具し、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 二二頁) 第一の真理に到ろうとして怠ることなく、濶やかな心でぬか…

原始仏教講座 第四講 その二十

第四講 その二十 話は分ったが、それではそれを体験しなければならない、体験するためにはある程度の修道、修行しなければならない。しかし時間もお金も無いから、とても出来ません、というと話だけで終る。だから感情的には、あい変らず、話はそうだけど矢…

静思湧言

マアマア人間のトップは?「ン・マア何と云ったってワタシでしょう。」 偉い人とエライ人。重荷を負う人と負わせる人。 選挙とは、ダルマに目を入れること。 明りが強い程、影も濃くなる。文明が影を作るという皮肉。 日本の現実指向は、原理軽視の欠陥内蔵…

出家と在家

「出家と在家」 今時、出家者と在家者を分ける本来の仏教は、いかにも古くさい様に思われる。仏教の場合、古い新しいが判断基準ではない。何が本物か、何が亜流かということが基準である。 何が本物かということは、何が本質かということでもある。仏教は人…

静思湧言

吸うでもなく吐くでもなく、湧言は微息の間にある。 乱発想は価値とは限らないが、価値生産のベースにはなる。 集中→と乱発想←↑↓とを等価交換せよ。 時間を忘れる集中、時間を活用する集中。 心が軽くなるのは、責任を超えた時。 テステイ、昧のある選択をど…

釈尊の聖言 「死について」

釈尊の聖言 「バラモンよ、死なねばならぬものにして、死を恐るるものあり、又死を恐れざるものあり。死を恐るるものとは、五欲に対してむさぼる心を去らず、重き病いにかかるなれば、好めるものを捨てゆかねばならずと苦しみ悩み、胸をたたきて泣き悲しむな…

経集 67

67 予め楽と苦とを離去せしめ、且つ喜と憂とを第二第三禅にて除き、第四禅にて清浄なる捨と止とを得て、犀角の如く独り応に遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 二二頁) 以前に経験した快楽と苦痛と喜びと悲しみとを忘れ去…

静思湧言

発見の驚きと喜びが、生命の本質。 道を好むのに理由はない。道を好まないのにも理由はない。朝、目が覚めるように。 教えようのないのが品だという。そこで教育界に品がなくなる。 四季感が人間を引きしめてくれる。 年中唄っている者と、まるで唄わない者…

原始仏教講座 第四講 その十九

第四講 その十九 ではどうなればいいかということです。滅諦です。滅諦ははげしき愛をすてさりて、執着はなれ、苦を滅し、解脱をなせるニバーナなり。滅諦というのはその苦しみが無くなった状態をいうわけですが、どうしたらそうなるかというと、どういう状…

経集 66

66 初禅にて心の五蓋をば捨断し、一切の随煩悩・瞋恚を断じ、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 二二頁) 心の五つの障りを捨てゝ、汚れを悉く払ひ去り、何物にも頼らず、貪りと無知とを絶ち切って、犀…

法によって平常心

「法によって平常心」 『平常心これ仏法』と云われる位に、仏教ではそれを大切にする。どのような異常事態になっても、平常の心で対所せよ−ということである。貧すれば鈍する−とも云われるが、衣食足って礼節を知る−とも云われる。しかしこれも大分注訳とい…

静思湧言

内的百八十度の転換は、気づかぬ中になされる。 集中力とは内的技能である。 日本人の比較意識は長所であり短所である。 立脚点を作ることゝ、枠を作ることゝは違う。 自分を方向づけたら、後は静思冥想にまかせる。 本当のつみ重ねは、飛躍を内蔵している。…

釈尊の聖言 「業報と修」

釈尊の聖言 「ビクらよ、自らなしたる業の通りに報いを受けざるべからず、と云うが真実なれば、清浄の行いをなす必要なく、苦悩を滅ぼす機会もあり得ざるなり。 ビクらよ、小さき罪業をおかして地獄におちる衆生もあり、また同じ罪業をおかせるも、その報い…

経集 65

65 諸味の貪求をせず動貪なく、他を養うことなく、次第乞食し、家々にて心結縛せらるゝことなく、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 二二頁) 味ひを貪らず何物にも心動かされず、他人を養うことなく、…

原始仏教講座 第四講 その十八

第四講 その十八次は集諦。後の生存もたらせる、喜びむさぼる愛にして、欲の愛、存在の愛、虚無の愛。これちょっと難しくなりますが、後の生存もたらせるというのは、死んだら終いではないということです。何らかの形で死後も存在する、生まれ変わりもすると…

「正念」を呼び起す

「正念」を呼び起す ビク尼の教団が出来たのは、釈尊による仏教活動が始まってかなり後である。この頃には、あまり謙虚、素直なお弟子ばかりではなかったようである。こうしたことが起きてくるのも、教えがすみずみまではゆき渡りにくいことを示すと云えよう…

釈尊の聖言 岩にかく文字

釈尊の聖言 「世に三種の人あり。第一は岩にほりつけたる文字が、雨風にさらされて消え去らず長く残るがごとく、しばしば怒り、その怒りが長く続く人なり。第二は砂に書ける文字が速やかに消えざるがごとく、しばしば怒るも、その怒りが長く続かざる人なり。…

経集 64

64 葉の断除せる昼度樹の如く、鬚髪厳飾等の世俗の相を取り除き、袈裟衣を著けて出家をし、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 二一頁) 葉の落ちたバーリチャッタの木のように、世間の生活のしるしを取…

原始仏教講座 第四講 その十七

第四講 その十七それから愛する者にわかるゝ苦、自分お大事な子供がもし早く死んだりなんかしたら、これはまあ苦しいわけですから、愛する者にわかるゝ苦というわけです。失恋もこの内に入るかもしれませんね。失恋といえば、今の若い人結婚したがらないとい…

静思湧言

生きている人は生き生きしていることを気づかないが、生き生きしていることによってひとを生かし始める。 個人がぬけている和はもろく、個人が強すぎる和もぎくしゃく。 豊かさとヒステリーは正比例する。 目本文化とは煮つめ。 自然の音を聞いてきた日本人。…

法の相続者たるべし

「法の相続者たるべし」 『恒産なくして恒心なし』というのが儒教の教えである。家庭を持つ者は、生活の安定なくして、安らかな心を持つなどとはとても考えられない。その故に人は収入を求めて、まじめに働らく、その故に社会的に、保険や年金の制度が発達し…

経集 63

63 目を下に投げ、彷徨することなく、諸根を護り、意を守り制し、煩悩の流漏なく、煩悩の火に焼かれずして、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 二一頁) 目をじっと下へ向けて、うろうろせず、物に対す…

釈尊の聖言 「三宝帰依の徳」

釈尊の聖言 「ブッダ世尊はあらゆる衆生にこえてすぐれたり。この第一にすぐれたるブッダに帰依をなすが故に、第一の徳を得て人間、天界に生まれてその福を受くるなり。法はブッダの開き現わし給う所にして、あらゆる法にこえてすぐれたり。この第一にすぐれ…

原始仏教講座 第四講 その十六

第四講 その十六ところが、人間というものをまあ概念的というか、哲学的に見れば、最後は死ぬんですね。死ぬということは、逆算して、死ぬ存在であるが、それでいいかどうか、ということなんです。儲けたの損したの、美味いもの食ったの、どこ行ったのという…

仏教の素因

「仏教の素因」 偉大なる人の伝記というものは、たいがい、いろいろな超人性をつけ加えられ、紛飾されることが多い。ましてや信仰の対象ともなるブッダ釈尊においては、どの様に神秘化されるか分らないという所である。実際、釈尊の伝記について二通りがある…

静思湧言

己を活かさねば、生かされにならない。 さあ どう踏み出すか だ。 あなたの人生も、ゆきづまりはないはずです。 昨日が私を追い出すのですね。 微笑という無価値の価値について論文を求む。 冥想轜宇宙リズムを傍受する。