横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十五)

先生は此度の召命の四年前から健康以前の如くなく、ことに入洛してからは病気勝ちで出勤することは少なかったが、至尊の恩寵や輔相始め一統の優遇と同情とに感激して病苦を忍びつつ至誠を尽くし職務に鞅掌していた。

先生の病気は腎臓及び尿路の結核らしく、病勢には著しく消長があって、時々高熱や、血尿や、排尿困難や、劇痛などに悩まされ、ある時は重篤に陥り門生等を枕頭に集めて遺表を口授したこともあり、又辞表を提出せんとすることも度々であった。
 
明治二年の春明けて先生は六十一歳となった。其の還暦を祝う者こそ有れ先生が兇刄に斃れようとは誰が予想したであろう。

先生は予ねて二甥や門人に対して、自分も今日までよくこれで生きて来たと思う。たとい自分が非業の最後を遂げるような事があっても復讐はしてはならぬ、と戒しめた位で、其の身辺を狙う者の有るのは固より覚悟の前であったが、世上の成行きも漸次平穏となり、一時流行した暗殺沙汰も漸く下火となり、初出勤した正月四日の夜の如きは、門人共相集って最早日々の出仕に左程の警戒も要るまいと語り合った程だったが、しかも皮肉にも、此の同じ夜先生の寓居(寺町通り竹屋町上る西側の大垣屋といふ人入屋)から程遠からぬ丸太町の一角で先生暗殺の密謀をめぐらす一団があった。
 
そもそも先生暗殺の計画は、十津川浪人を中心として集まった保守攘夷論者約三十名の間に、前年十二月中旬頃から進められていた。彼等は当時攘夷を唱え、全く時流に取残されて不平満々たる徒輩であった。

新政府以来万事洋風に改変されてゆく時勢を憤慨し、其の張本人は先生であって、而も先生は耶蘇教を信じ、之を国内に広めんとする由であるから、皇国のため一日も早く先生を除かねばならぬというのであった。

刺客は上田立夫・土屋延雄・前田力雄・中井刀彌尾・鹿島又之丞及び柳田直蔵の六名で、その暗殺方法としては、先生退朝の途中を要撃して首級を三條大橋に梟することに一決し、四日を期して決行する段取りになっていたが、連絡の不備から機会を逸したので、其の翌五日再挙を図ることとし慎重にその手筈を相談した。その同じ夜先生の寓居では門人等が前述の如く世の中も静まったからと語り合っていたのである。
 
いよいよ正月五日太陽暦では二月十五日)即ち八十年前の今月今日は来た。刺客は八つ時(午後二時)前から御所の中の築地のかげに身をよせて、先生の退出を今やおそしとまち受けた。神ならぬ身の先生は、自己の身辺にかかる運命の迫り来るのも露知らず、この日も正装にて大政官に出仕し、天顔を拝し、やがて退朝したのは八つ時過ぎで、丁度今頃であった。

先生の駕籠は寺町御門より出た。此処から南へ寺町通りを一筋に下れば先生の寓居まで僅かに数町に過ぎぬ。駕寵脇と五、六間あとに若党一人ずっ附き添い、門生で当日の護衛番たる横山助之進・下津鹿之助は二十間計り遅れて何事か話しつつ隨っていた。
 
此の日は恰も本日の如く骨身に徹るような寒さで、空も心なしにか陰欝に曇り、まだ昼下りと云うに、何となく黄昏めく町筋を見え隠れに先生の駕龍の後をつけたる黒布で覆面した六人の刺客は、先生の駕籠が丸太町の角を通り過ぎた刹那、上田が駕龍に向って発砲したのを合図に、駕龍を目がけて斬りかけた。

不意を喰って駕龍脚の乱れた瞬間、中井は右より、上田は左から駆けよりざまに一刀を駕寵に突込んだ。あわやと見る間に素早く駕龍を抜け出た先生は、短刀引抜いて身構えるを、前後左右から殺到する敵、寄せじと防ぐ味方、白刄閃き血烟はたって忽ち乱戦の修羅場となった。

かかる中にも先生は駕龍を後楯に四方より迫る敵を短刀を以て支えていたが、病み疲れた老体の思うに任かせず、幾太刀かを受けた上に横合から斬り込んで来た一撃でどうと倒れた。その場所には今京都府の手にて「横井小楠殉節地」なる石碑が建てられている。

兇徒の一人鹿島は先生の首級をあげて丸太町を西に走ったが、八町次郎と綽名を取った足達者の若党吉尾某が急を聞いて駆けつけ、逃ぐる鹿島を逐うて之に追付くと、敵は矢庭に首を投げつけて何方ともなくあとをくらました。
 
噫、巨星は遂に墜ちた。明治政府はここにかけがえのない重臣を失った。先生暗殺は全然誤解に出でたもので、先生は事実耶蘇教信者でなく、況んや之を国内に広めようとする手段を採ったことも全然無かったが、先生が大政官中進取的な識見思想の持主として独り重きをなし、しかも海外の新知識を吸収することに汲々たるのみか、耶蘇教の教理までも研究せんとしていたことが此の災禍を招いたものと思う。
 
先生の遺骸は肥後藩と関係の深い洛東南騨寺の山内天授庵の墓地に、遺髪は京都から持ち帰られて沼山津の墓地に葬られた。

刺客は中井一人を除く外は皆捕えられ、その助命運動盛んに行われしも、明治三年十月に至り皆斬に処せられ、暗殺計画に関係せる者もそれぞれ罰せられ、先生遭難事件は先生歿後一年十ヶ月にして其の局を結んだ。