横井小楠先生を偲びて 2 「横井小楠伝」著述の動機 (その一)

2 「横井小楠伝」著述の動機(小楠先生の肥後西洋医学弘奨)
此の講演会に於て先生を語るのには外に然るべき人がおろうと思うのに、県教育委員会が私にその講演を命ぜられたのは、只今永井教育次長の御挨拶によると、私がさきに「横井小楠傅」を著述して之を刊行した為である。何故に医者である私が医者でもない小楠先生の傅を著わしたであろうか。此の著述に筆を染めた動機は、主として徳富蘇峰が之を勤め且つ請うたのによるが、そのもとは先生が肥後に於ける西洋医学の興隆に大いに力を尽くしたのに基因するのである。今此の機会にそのあらましを述べて置きたい。

 徳富蘆花は其の著「竹崎順子」に、

肥後の維新は明治三年に来ました。それは横井小楠がかねて嘱望し遠ながら誘掖して置いた世子細川護久家督を相続し熊本藩知事となり、勅許を得て弟長岡護美と藩政改革に帰って来たのがきっかけでした。横井死後満一年で横井の時代が肥後に来ました。横井の息がかかった若い藩主や、其弟が局に立つと横井の友人門人が網の元綱をしぼるやうに続々と登庸されます。

とかいているが、此の肥後藩政の改革は真に驚天動地と云うべきであって、又それを一転機として肥後の文化の海に泰西文明の流れが澎湃として流れ込み、諸種の施設や殖産興業が勃興した。それ等は先生と直接の関係はないにしても、其等に当った人達は全部と云わずとも殆ど皆先生の門下たらずんば間接にその教を受けたもので、それ等のほとんどすべてに先生の息がかかっていて、西洋医学に於ても亦そうであった。