2010-10-01から1ヶ月間の記事一覧

釈尊の聖言 「三毒の火」

釈尊の聖言 むさぼりの火は欲にふけり心まひせる人々を焼き、怒りの火は心怒りて生物をそこなう人々を焼き、愚ちの火は心迷うて聖法を知らざる人々を焼くなり。知恵の輝きなく、己のみを愛する衆生はこの三つの火にて焼かるるなり。 不浄観を修めて欲の火を…

原始仏教講座 第五講 その七

第五講 その七 仏様というのは宗教活動する方で、我々が成仏する仏になるというのは宗教活動するということです。宗教活動すれば仏様になる.仏様になるという肩書きが、仏様という肩書きが大事なのか、宗教活動をする中身が大事なのか、とすればもう中身が大…

経集 75

75 利の為に人々は他に親近す、無所得の友は今や得ること難し。不浄なる人々には自己の為の慧あり、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 三 犀角経 二四頁) 当てがあって交際し奉仕する友はあっても、無心で一切を…

心の悪魔との対決

「心の悪魔との対決」 今こそ求められる仏教 仏教とは仏けさまが救うて下さるもの、仏けさまの慈悲に満ち満ちたものと思われる方が多い。それと同時にその様な仏けさまがどこに存在するであろうか、と疑問に思う向きも多い。 さて仏けさまの根本、もとおこり…

釈尊の聖言 「苦滅の法」

釈尊の聖言 これは苦、これは苦の因、これは苦の滅、これは苦の滅に至る道と明らかに知らざれば、まことの出家者と云えず、出家者の目的を達し得ざるなり。 「苦滅の法」 仏教とは覚り・救われを求めるものである。それが成仏であり往生である。これらを説か…

原始仏教講座 第五講 その六

第五講 その六 そこで超論理になるから論理が分らなくなるということになってきます。それでお浄土に行ける往生出来る、ああ有難いという信仰は成り立つが、人間とは何か、真理とは何か、すじ道はどうなっているのかという話はあまり出てこない。全然出てこ…

静思湧言

日本の創造-運動会。 よく学ぶほど遊べなくなるのがポント。 文部省指導要領検定-よく遊び、ほどよく学べ。 たわけと馬鹿の差について論述せよ-大学入試。 野良猫は安らかに生きている。 日本は競争国、狂葬曲に似ている。 パチンコは一人になり切る世界…

機会はどこにでも

「機会はどこにでも」 仏教は自ら求めるもの 『善を行い、聖者をそしらず、正しい見解を持つ者は、天国に生じる』その反対の者は難所に生じる。いかにも明解、分かり易い内容だが、少し考えてみるとなかなか大変だ。善を行うーと云っても一体何が善なのか今…

経集 74

74 慈と捨と悲と喜との四無量心解脱を時々に習行しつゝ、一切世間に違背することなく、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 三 犀角経 二四頁) 貪りと怒りと無知とを離れ、縛りつけるものを絶ち切り、いのちを失う…

釈尊の聖言 「乞食」

釈尊の聖言 鉢を手にして戸毎に食を乞うは、いやしき生活の仕方なり。この暮し方に在家の子が、自らの意志によりて来たり、王命によらず負債の為にあらず生活の為にもあらず、生老病死や憂悲苦悩を終らしめんとして来たりて、しかもむさぼりを離れず、常に怒…

原始仏教講座 第五講 その五

第五講 その五 正法そしるも者のぞく。真理正法、そんなものあるもんかと、そんなの話に過ぎない、というようなのが正法そしるということになるでしょう。仏教の世界、真理正法の世界ですから、そんなものあるもんかという人は例外になる、行かれないとなる…

戒と律は生活法

「戒と律は生活法」 「サンガは 世尊の弟子の和合衆、善く正直に修行なし、正しく暮らし道に入る、四組八人の衆にして.礼賛供養に値いする、こよなき世間の福田なり。」 日本の場合、信仰や宗教で、あまりに信が強調され、その信者や修行者の生活面が、どう…

経集 73

73 慈と捨と悲と喜との四無量心解脱を時々に習行しつゝ、一切世間に違背することなく、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 二 犀角経 二四頁) 慈しみと安らぎと哀れみとのどけさと、心の優しさとの中にいつもあり…

釈尊の聖言 

釈尊の聖言 「五つの力」 学ぶべきビクに五つの力あり。信と慚と愧と精進と知恵なり。 ビクにしてもビク尼にしても、たとえ苦しみ悩み、涙にぬるるも清浄にして、円満なる行を行うなれば、五つの称賛を受くるなり。 「おんみは善法に対し信仰あり、内に恥ず…

原始仏教講座 第五講 その四

第五講 その四 そのうちの18番目がこれです。たとえブッダとわれなるに、私が仏様になるのに、ただ仏様になるんじゃないと、私の所に来たいと、私のお浄土に来たいと思う人達が皆私の所に来れるようになるのでなければ、私だけが仏様になってもしょうがな…

高度な宗教

「高度な宗教」 仏教の一切性 地面の底から沢山のボサツ(在家仏教者)が湧き出たとか、三途の川で、お地蔵さま待ち受けていて人々を救って下さる−といった経典の話が、この日本では満ち満ちている。それはそれなりに宗教性があり、善男善女を育ててきた。道…

静思湧言

質問に馴れると、思考力は低下する。 思考の弾力性は、休息転換の仕方による。 生き方は創造性を内包する。 トンボの自由さは、雑音を聞かないからである。 人間の大きさと暖かさは正比例する。 トンボは自立型。 安全は必らずしも安全を保証しない。 考える…

釈尊の聖言 「施の果」

釈尊の聖言 将軍よ、布施なすものは多くの人々に愛せらる。布施なす人には正しき善人が従い仕えるなり。 布施なす人は誉れ高く、又いかなる人々の集りに行くもおくすることなし。叉その功徳によりて、死後は天界に生ずるなり。 「施の果」 ◎布施とは善意を表…

原始仏教講座 第五講 その三

第五講 その三 阿弥陀経とか法華経が出来たのは紀元元年前後なんです。時代によって差が出来てきます。なぜかというと、前のお経をふまえて、前のお経の批判して後のお経が作られるからです。だから段々論理的に、非常に哲学的になる、なり過ぎると、その度…

聖と俗の違い

「聖と俗の違い」 聖とは絶対の自己化 この短い原始経典(アーガマ)(三宝法典 第二部 第三四項 一人子 ラッタパーラ)には、どの様にして人が釈尊の弟子になっていったかを明らかにしている。財産もあり若き妻もある青年が、何故にそれらの幸福と満足を振…

釈尊の聖言 「嫁の心得」

釈尊の聖言 娘達よ嫁入らんとせばかくの如く心得るべし。夫の父母はわれらの利益にならんと、慈しみ給える方なりと感謝をなし、早く起きおそく寝、いつにても用の勤まるべくなし、又やさしき言葉にて慰さむるべし。夫の尊び敬える父母や出家をわれも尊び敬い…

経集 72

72 歯牙強く百獣の王たる師子が他を制圧して行くが如く、困苦を克服して辺境の臥坐所を受用し、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二一 蛇 品 二 犀角経 二三頁) 獅子が強い歯の力を持つ故に、百獣の王として堂々とゆくよう…

原始仏教講座 第五講 その二

第五講 その二 というのはこの紀元元年前後にこういうお経を作った人達、たとえば法華経とかですね、般若経とか、さらに密教のお経はさらに三、四百年後に作られたんですね。密教のお経とは大日経です。バラモン教の要素を取り入れて、仏教の論理と混ぜ合わ…

仏教は楽しき学習なり

「仏教は楽しき学習なり」 ブッタ釈尊は師にして手本 釈尊は宗教者である。人間としての理想を生きぬかれた方である。ブッダとは真理を悟り、自ら実践した方である。如来とは真理―如から来た方、つまり真理を体得しそれによって実生活をする人である。この人…

釈尊の聖言 「そしる者」

釈尊の聖言 「そしる者」 如来をそしるものに二人あり。一は内心に悪意をもつ者、一は誤れる信仰を抱くものなり。 又二人あり。一は如来の説かざるを説けりと云い、一は如来の説けるを説かずと云うものなり。 「そしる者」 ◎釈尊が理想の宗教者として、生き…

静思湧言

快食・快便・快眠、その後は何か。 外なる環境を求める間は、内なる環境が熟さない。 人生、分らぬ中は花、分れば実。 年中、花曇りというのもどうか。 日本への警鐘-家庭内暴力、自殺年令低下、宗教の軽視。 まことの光りは、つねに小さい。 放浪期のない…

原始仏教講座 第五講 その一

第五講 その一 大慈悲の説明をするわけですが、この大慈悲というのは私が勝手に項目、見出しとしてつけたものです。内容は大無量寿経というお釈迦様が亡くなられてから五百年位経った後、紀元元年前後ですね、宗教活動をせよという、人々の願望、というかそ…

仏教上の心構え

「仏教上の心構え」 目的と手段 仏教とは、人間が生きてゆく上での最も価値ある目的と、最も直接的手段を明らかにするものーである。釈尊の直説の、このアーガマ経(伝承経)(三宝法典 第一部 第三八項 筏のたとえ)も、そうした意図、内容が実に端的に表現…

釈尊の聖言 「人天の師」

釈尊の聖言 「人天の師」 ビクらよ、この世界に多くの人々の利益と幸福の為に現わるる二人あり。如来と転輪王なり。 この二人はまた人間の師として世に現われ、この二人の死は多くの人々の悲しむ所なり。 この二人は塔を建つるにふさわしきものなり。 「人天…

静思湧言

生きる意味を教えない教育とは何か。 青春は自立への第一歩。 幸福論の限界は、自己を明らかにし得ないことだ。 難問の第一。-世界平和は理想となり得るか。 難問の第二。-人はなぜ、内を見ないのか。 若者のあり方が未来を現わす。 生き方のコツ-不確定…