横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  そのニ

先生はかくの如く勇進的開国論の大立物であったが、当初から開国論者であったかといふに、決してそうではなく、安政年間に入るまでは、激越な攘夷論者であった。

それで水戸の藤田東湖・会澤正志斎などと結託し、肥後勤王党とも交驪し宮部鼎蔵・永鳥三平等とは最も親しく相往来していた。其の時分先生の書いたものを見ると、これが世界の大勢に通じた上に於て、また我が国開国史上に於て佐久間象山と日本の両眼球と云われている先生のものとは信じ難いほどである。

その一、二を挙ぐれば、嘉永三年五月に福井藩士三寺三作に寄せた書簡中、外船来寇の取沙汰専らなる際、和議通商の説をなすもの多きを慨して「夫我神州は百王一代三千年来天地の間に独立し、世界万国に比類無之事に候へば、たとい人民は死に果て、天地はすべて尽き果て候ても、決して醜虜と和を致候道理無御座候云々」なる文字があり、嘉永六年ペリー来航後の作には「婦女還た能く死を見ること軽し、義肝国は称う男児の名、紛々海を擾がす彼れ何の虜ぞ、此の虜殲さずんは誓って生きず」なる七絶があり、又八月藤田東湖に贈った書面中にも「江戸を必死の戦場と定め夷賊を韲粉に致し、我が神州の正気を天地の間に明かに示さずんばあるべからず」とあって、藤田等にも劣らぬ程に激しい攘夷家であった。
 
然るに、慧眼にして俊敏なる先生は、何時までもかかる偏狭な攘夷排外の頑論に執着しては居らなかった。世界万国の形勢、国際場裡に於ける日本の立場といったものに対して深甚なる省察考究を加うるに至ったのである。幕府が安政元年三月米国と和親條約を締結してからは、此迄の先生の対外意見に変調を来たしはじめて来た。それは米国と和親を約せば露国ともせねばならぬ、すでに露国と約せば、英・佛其の他ともせねばならず、遂には日本を世界列強に開放する事になるのは必然の趨勢となったからであろう。

先生が同年八月福井の吉田東篁に与えた書面を見ると、和と云い戦と云うは畢竟偏した意見である、時に感じ勢に隨いて其の宜しきを得るのが真の道理だ。是迄一途に和・戦の二つを争ったが、既に米国と和親を約した今日となりては、和を絶ちて戦に引返すことは最早行われない勢でもあるから、和は和にして置き、宜しく内は講学を以て列藩君臣を一致せしめ、外は応対の人物を選び、自然の道理を以て外人の心を服せしむべきだと云う意味の文字があって、前年までの先生の対外意見とは大分趣きを異にしている。
 
処が、先生は翌安政二年に入るや、真向に開国論を振り翳すに至った。それは元田東野が小楠先生の開国論を聞いて其の卓識に敬服したことを記している手書に「先生の此卓見安政乙卯の年に在りて、天下誰か此見を具したるや、後より之を考ふるに、佐久間象山・永井雅楽一、二の外は会て聞かざる所なり」とあり、又先生の門人内藤泰吉の「北窓閑話」の中に「安政二年先生は「海国図志」によりいよいよ開国を主張さるることになった云々」と記してある。本書は米人ブリヂメンの著わした万国地理書を漢訳したもので、嘉永安政の交、外交を論じ海外に志あるものは競うて読んだのである。これによると、熱心に攘夷を主張していた先生は僅か一、二年にして開国論者と豹変したのである。