横井小楠先生を偲びて  四 小楠先生の全貌 (そのニ)

今までは先生の美点だけを述べたが、先生も人間である以上、多かれ少かれ欠点の持主でもあった。しかし、その欠点と云わるるのには恕すべきものが多いが、何としても弁護の余地のないのは酒癖であった。徳富蘆花が「興に乗っても呑み不興に乗っても飲みました」と書いている通り、先生は酒なくては暮せなかった。友人や家人の忠告によっても禁酒を続けることは出来なかった。此の禁酒については面白い話が遺っている。

先生が家人に誓って一時禁酒していた頃、先生の兄嫁が毎朝神棚に供えて置いた神酒徳利をおろして見ると、前日一杯入れてあった酒がいつも空になっているので、不思議だと考えて見ると、先生が呑むにちがいないと思いついた。それほど好きなら可愛そうだと、それから急に徳利を大きくして酒をなみなみと入れて神様に上げて置くと、いつも翌朝には空になっていて神様の方が先生のお流れを頂戴すると云う調子であった。
 
先生は酒を用いると、自他倶に陽気に且つ愉快になる場面もあったが、多くの場合は時勢の慷慨談から追々悲憤の情禁ずる能わざる状態になり、天下の廓清は吾れ出でずんば能わずといきり立つ其の権幕は当られず、時には猛然家を飛出すなど手の附けられぬ狂態にも陥ったらしい。

斯る場合に気に入りの門生などの取持ちによって工合よく静まる事もあるが、余りに甚だしき時は窮余の策として、先生を仆して其の上に蒲団を掩い、力強き者をして其の四隅を押えて出させぬと云う方法を講ずるの已むを得ぬこともあり、福井では先生の酒狂に備える為に特に力士が雇ってあったと云う遺話さえもある。
 
伝うる所によると、先生の酒量は少く、而も容易に今述べた様な酔態に陥るが、それも其の場其の一時限りで、酔いがさむれば光風霽月些の痕跡を留めざるを常としたそうな。然るに、其の狂乱の為に家族や門生を始め、周辺の人を困らせ、延いては自分の品格を傷けたことは少くなかった。それだけならまだしもだが、其の乱酔間に於ける先生の言動は、啻にその反対者に好辞柄を与え、誤解や迫害を招く原因となったことの夥しいのみならず、先生の立身出世を阻害したことも亦一再に止まらぬ。

前に話した如く天保十年江戸遊学の半ばにして帰国を命ぜられたのも、明治元年に京都に召された時顧問の位置を与えられなかったのも飲酒癖が禍をなしたのである。平凡なる人間ならばいざ知らす、先生ほどの透徹した頭脳の持主で、而も天下の重きを以て自ら任じた偉人が、どうして酒に呑まれたのか真に不思議なようである。

国是十二条
 小楠先生が慶応三年福井藩士松平源太郎(後の正直)に贈りたるを、松平が福井藩政府に差出し、執政又之を春嶽及び藩主の覧に供したるもの。

一、 天下の治乱に関わらず、一国の独立を本となせ。
二、 天朝を尊び、幕府を敬え。
三、 風俗を正せ。
四、 賢才を挙げ、不肖を退けよ。
五、 言路を開き、上下の情を通ぜよ。
六、 学校を興せ。
七、 士民を仁(いつくし)め。
八、 信賞必罰。
九、 富国。
十、 強兵。
十一、 列藩に親しめ。
十二、 外国と交われ。