横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十三)

春嶽は政治総裁職たる重任にありながら、内外倶に危機相迫りて最も為す有るべきの秋に際し、無為無策退京したのは如何にも無責任で、天下従来の信望に背くこと甚だしく、延いては福井藩今後の立場を失うこととなるので、是に於て信を天下に回復し一藩の立場を維持するのには断然たる対策なくてはならぬこととなった。よって君臣の間に種々評議が凝らされた末、二箇條の藩議を一決した。

第一、攘夷は到底行わるべきではないが、既に天下に之を布告した上は、鎖港の談判に当りて飽くまでも條理を履み、我が国の汚辱とならぬようにしたい。それには各国公使を京都に召集し、将軍・関白以下朝・幕要路の人達列席の上にて、談判を開き、彼我の所見につき充分攻究して後、開・鎖か和・戦か執れとも決すべき事。

 第二、近来幕府の施政には失体が多い。之は将軍を輔佐する幕府有司に其の人を得ざるに因るから、今後は朝廷にて万機を主宰せられ、賢明の諸侯を機務に与らしめ、又諸有司も幕土のみに限らず、列藩より適材を選抜するよう定むる事。
 
此の二條の作者は勿論先生であって、これを実行に移すには諸藩の君臣大挙急ぎ上洛して之を朝・幕に建言すると共に、尾張・薩摩・会津・肥後等の雄藩とも提携して、あくまでその目的に邁進せんとするにあった。

処が、六月上旬将軍は東婦することとなり、又京師の形勢も此の計画の実行を危険ならしめるに至った。かくて藩内には持重論漸く重きをなして、藩論俄かに一変し、上洛見合わせとなると共に熱心に此の計画を主張した藩士は処罰されて、先生の筋書は茲に空しく挫折してしまった。

先生も此の上は福井に長居は無用と、遂に西帰を決意し春嶽及び茂韶に暇を請うた。両人は容易にそれを許さなかったが、再三懇願して止まぬので、已むを得ず其の請いを許すと共に、家臣四名を先生に添えて熊本に遣わして、多年先生を借用した謝辞を述べしめると同時に、先生の江戸遭難時に於ける士道忘却に対する肥藩の処分の寛恕を請わしむることにした。

そして一行は三年八月十一日福井城下を出発し、翌十二日三国港を出帆して十九日長崎に入港し、二十五日熊本に着いた。
 
先生は沼山津の草廬に謹慎して藩政府の処分を待ち、福藩使臣は先生所罰の寛典を国老其の他につき請願しつつあったが、其の年十二月十六日に至り、漸く罪案決定し、先生は知行を召し上げられ士席を差し放たれた。

かねて覚悟していた先生は謹んで伏罪し、此の上は二甥左平太・大平を立身せしめて主家に報恩しようと決意し、文字通りの浪人生活に入った。
 
これからの先生の生活振りについては之を徴すべき資料に乏しいが、その間に於ける先生の作詩などによると、先牛は全く名利を超脱して悠々世間を閑却したかに見える。けれどもそれは決して先生の本心ではなく、先生の忘れようとしても忘れ得ないのは天下国家の事であって、時来らば再び雲を得て飛躍せんとする勃々たる雄志を胸裡に蔵し、己も学び人も教えんとするの熱意は毫も衰えることはなかった。

かくして他日の機会を待ちつつある間にも、その抱懐する実学の精神を以て、利用厚生の事に思いをいたし、積極的に製茶・製蝋・製絲の如き産業の奨励に力を尽くした。