2010-08-01から1ヶ月間の記事一覧

原始仏教講座 第四講 その十一

第四講 その十一魂、そういうものがあるかというわけです。そうするとすべての物は相互関係にあって影響し影響を受けて変化するんだから、自分の魂といえども変化するはずだということになります。影響受けるんだから自分というもの、自分の一個というものは…

まことの生き方

まことの生き方 若者が何故出家求道したか 釈尊当時では、バラモンの神主さんのところに住み込み、学習にゆき、十九才ごろそれがすんで家に帰り、妻をめとり、家の仕事をし、しばらくして、家のあとつぎをし、家長となる習慣であった。しかしこれも、貧しい…

経集 58

58.多聞にして法を持し応弁を具せる偉大なる友に交はるべし。自他の義を知り疑惑を調伏し、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 二〇頁) 豊かな智慧の持主しで打てばひゞく、気品ある友と交はるべきで…

釈尊の聖言 「清浄の心」

釈尊の聖言 「ビクらよ、数ある木々の中にてフハンダの木(チーク材)ほどしなやかにして、便利なる木材はなきが如く、習い修めたる柔らかき心ほど役に立つはなし。 ビクらよ、心ほど軽々しく転じ易きはなし。心はもともと清浄なり。その心、外より来る汚れ…

静思湧言

施に二通り。身と心と、お金だけと。 決断は自己啓発の第一歩。 論理はその過程が必須条件。 富裕は第三の徳、施貧は第一の徳。 あなたの一生は何に、何を施したかで決まる。 神・仏け・大真然すべて施を本体とする 人気ブログランキングへ

原始仏教講座 第四講 その十

第四講 その十わが本体というのは魂、魂というのはどういうものかというと、魂の概念規定三つあるわけです。常(じょう)、一(いつ)、主宰(しゅさい)ということです。常というのはつね、それは永久に変らない。永久不変である。自分の魂がちょろちょろ変…

経集 57

57 正しき義を見ず邪曲に住著せる、悪き朋友をば回避すべし、自ら依著者・放逸者に習ふべからず、犀角の如く独り応に遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 十九頁) よからぬことに熱中し曲がったことに没頭する、悪い仲間と…

死から生、生から死

「死から生、生から死」 死 と 生 やるだけのことはやった、として 喜びに満ちて、この世を去る人がいる その人にとって、それは一つの宗教なのだ 死が苦しみなのではない 生きていることの、意味がつかめない 己を認めることが出来ないのが、苦しみなのだ …

モノトーン

「モノトーン」 絵のデッサンをするとき 何を省略するかがポイントだ 瞬時の選択をせまられる 人生を生きる時もおんなじだ 何を省略し 何かを捨てる いわば決断の連続だ 『二ついいことはない』と師は云う 白黒のモノトーンでもいい 一つに決めてゆく人生が…

釈尊の聖言 「濁り心」

釈尊の聖言 「ビクらよ、濁れる沼地に立てば、池の底の真珠の貝も黄金の貝も、小石も魚の群れも、動くもの動かざるもの、すべて見ること難し。 ビクの心、濁りてあれば、自らの利を知り、他の利を知り、自他共通の利を知り、聖なる智見を現わすこと難し。」 …

原始仏教講座 第四講 その九

第四講 その九すべてものごと 変りゆきというのは、すべてが相互関係にあると、相互関係にあるからその変化せざるを得ない、影響を受けて、影響受けるんですね。自分だけなら影響受けないということあるけれど、回りのものによって影響受けるから、必ず変っ…

在家としてどうするか

「在家としてどうするか」 王権からの独立 コーサラ国は、釈尊出生のシャカ国の隣り、後にシャカ国を併合する大国である。この大国の王パセーナディは世尊(釈尊)の評判を聞いて自ら訪問する。これは釈尊はじめ弟子衆すべて出家であるから、別に王にとり入…

経集 56

56 動貪なく詭詐なく渇愛なく、覆(偽善)なく悪濁と癡とを除去し、一切世間に於て意楽(渇愛)あるなく、犀角の如く独り応に遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 十九頁) 欲を離れ、偽りなく、渇くように求めることを止め…

静思湧言

非凡さとは、凡を解明することである。 正しさと、やさしさをどのように使い分けるかが、人間の成熟度。 不思議感性がなければ、人間が始まらない。 悪に二種。主観によるものと、客観によるものと。 迷走神経高速道路、新興信仰の花盛り。どちらもスローダ…

釈尊の聖言  「八聖道最後の人」

釈尊の聖言「アーナンダよ、今わが定むる善き伝統は、煩悩を無くし、静けさに導き、ニバーナに入らしむるものなり。 その善き伝統とは何か、すなわち正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の八聖道なり。 アーナンダよ、おんみらこの定められた…

原始仏教講座 第四講 その七

第四講 その七今でもテレビで時々出ますが砂漠なんですね。ガンジス川の付近はちょこちょこっと木があるようだが、他の所は木があってもぽつんぽつんと立っている、草は生えていないんです。イスラエルもテレビで見るとまさに石ころばっかりです。木があって…

経集 55

55 邪見を戦はすことを超越して、正決定に達し聖道を獲得し、他に導かれざる独覚智を我は起せり、犀角の如く独り応に遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 十九頁) 誤った論議を戦はすことを避け、道に達し、道を極めて、「…

静思湧言

両手両足があるのは、安定バランスの必要性から。 キバやカギ爪を持たない人間は武器を持たないのが本質。 個が確立しない日本の和は、不安定の和。個が優先しすぎても不協和音。 自由だから何かをする。何かをするから平和になる。自由は手段であり平和は出…

仏教は学び体得するもの

「仏教は学び体得するもの」 生き方を土台にする仏教 ふつう「仏さまは信ずるもの」と思われている。信仰と仏教の違いが明白ではない。 信仰−救い、教え、真理、力、神秘などを信じる 仏教−真理を教えて貰い、これを学習する 宗教とは、宗{ムネ、一番大切な…

砂漠という自然

「砂漠という自然」 ゴビの砂漠は人を寄せつけない どこからともなく吹き起る風にのって 砂は舞いすべてを覆いかくす 人間にかかわりを持とうとしない そうした自然もあるということを 私たちは忘れてはいないだろうか 興亡斗争をくりかえしてきた人類は 今…

釈尊の聖言  「三宝への信」

釈尊の聖言 「ビクらよ、最もすぐれたる三宝への信あり。ありとあらゆる衆生の中、ブッダは第一に勝れたりと信じ、あらゆる法ダンマの中、むさぼりを離るる法、おごりをくだき、渇きをいやし、執着を除き、業報を断ち、はげしき愛をつくすニバーナは第一に勝…

原始仏教講座 第四講 その六

第四講 その六人間が苦しむのは、インドは苦しいんです暑いからですね、摂氏40度以上、しかも貧乏な人が大半ですから、非常に苦しいと、そうするとどうしてこんなに苦しむのかと言う訳です。死ぬのが苦しんじゃないです、生きているのが苦しいんです。だか…

宗教の時代

『宗教の時代』 日常の幸不幸も 因あり縁あり 日常を超えた聖なる境地も 因あり縁あり 人はまずこの因と縁に気付かねばならない 日常の物心を求めて得られれば 幸福 宗教的教えによって物心に対すれば 浄福 宗教の一端を何がしか荷なえれば 聖福 物が豊かに…

「導」の必要性

「導」の必要性体得したらどうするか 仏教は、何を目的とするか−仏教に関わる時これがいつもまず第一に考えられねばならない。人間は、目的的行動存在である。その人間が仏教を考えたま、それを実行したりする時、仏教の目的と、人間というか己自身の目的が…

経集 54

54 群集を楽しむ者が時解脱に至るべきの道理あることなし。されば日種たる仏の語に遵ひて、犀角の如く応に独り遊行すべし。(南伝大蔵経 第二十四巻小部経典二 一 蛇 品 二 犀角経 十九頁) 人と一緒にいることの好きな者は、しばらくの間も解放されている…

「お浄土とは何か」 (その二)

「お浄土とは何か」 (その二) 単なるおたとえでない象徴 極楽国土には、種々の飾り、種々の宝が満ち満ちていると、書かれているのは、やはり事物の姿というよりも、心の世界-法の世界を価値的に象徴してあるものと、とるべきであろう。 インドには美しい…

釈尊の聖句 368

368 慈悲に住し、仏陀の教を信ずる比丘は、寂静にして諸行静止せる安楽境に到るべし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二五 比丘品 七四頁) 安楽に至る 慈悲の心に住まい、ブッダの教を信じ喜ぶビクは、はからいやみ、静まりたる安楽の所に至ら…

原始仏教講座 第四講 その五

第四講 その五すべてものごとかわりゆきというのは、一切のものは変化して行くんであると、変化するということは、固定したものはないということです。固定したものが無いというのは、魂という固定した、自我というものがないということです。我が本体はあら…

自愛と愛他

『自愛と愛他』 誰だって自分が一番大事だ この自愛心があればこそ生きている これが傷つけられれば必ず反発する 愛他心は確かに大切な事だ それなのに難しいのは何故か 結局は生命が発達途中だからだ 人間は決して悪魔でも神でもない それなのに時にはそれ…

釈尊の聖句 367

367 名色(精神・物質)に於て全く我執なく、その非有の故に憂へざる者は、実に比丘と称せら。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二五 比丘品 七四頁) わがもの無し すべてのものと心にわがものとの思を起さず、無くなればとて悲しまざれば、その…