横井小楠先生を偲びて  四 小楠先生の全貌 (その一)

 四 小楠先生の全貌

以上で朧げながら在りし日の小楠先生の公的生涯の片影を述べたのであるが、今少しく先生を見直して其の全貌を眺めて見よう。先生の風貌・気質・態度などについては、先生の高弟たる徳富淇水及び江口高廉の書いた「小楠先生小傅」に記してあるのが簡にして要を得ているから、それをそのまま頂戴すれば、
 
 先生身材中人に及ばずと雖も、容貌魁岸眼光炯々一見して其偉丈夫たるを知るべし。性質聡明にして思想に富む、加ふるに非凡の識見を以てす。気宇豁達、神気爽快、困迫の中に在りと雖も憂色無し。人に接するに畛域を設けず、疇昔会て我を敵視する者と雖も、来れば即ち釈然たり。音吐朗々として談論風を生ず。人を教るや繩墨に流れず、燕談閑話の中能く其情を尽くし其蘊を吐しめ、其悉くさざる所を導き、足らざる所を繹ぬるの端緒を得せしむ。其怒るときは霹靂一声心胆をして冷やかならしむると雖も、一霎雨過て青天を腹るが如く、寸毫も述を留めず。又事を他に為さしむるや人をして其指示に出るを忘れ、其自ら思慮し得たる所を為すが如きの感有らしむ。又平素親に事ふること尤も謹み、人を憐れむこと尤も厚し。然れども議論操行一世潮流の外に出るを以て合するもの稀れにして、生涯殆んど汰珂の間に在り。晩年家人子弟を戒めて曰く、吾常に世と趣向を異にし他の指目する所となる、其免れて今日有るは蓋し天幸のみ、仮令吾今日非命に終るとも、敢て或は復仇を謀る勿れと、言遂に讖を為す。

なおこれに蛇足を加うれば、先生の特に常人に卓越しだのは頭脳の霊妙な透徹した活動であった。先生は神智霊覚湧いて泉の如き直覚的活眼を閃かした一面には、智識慾に燃えると共に、飽くまでも思想を練り、何事も其の淵源に遡り尽くさねば止まなかった。斯くして先生は能く天理人情の大妙理を看取し、人心作用の微妙を察知した。先生の識見は進取的で而も高邁深遠であり、先生の言論には当意即妙人の意表に出ずるものがあった。

先生は頭脳の働きが此の如く卓越していたのみならず、身体の各器官は善く調和を保ちつつ活溌に働いた。隨って其の動作に於ても徳富蘇峰が「横井先生は如何にも素敏き人にて、その素敏きことは織田信長にも比すべき程であった」と評している如く、非常に敏活軽捷で、しかも胆力と勇気に富んでいた。文久二年に江戸で刺客に切り込まれた時に、それと云うより早く刄の下を潜り抜け、刺客と遣りちがいに梯子を下りて身を全うした手際は、脚力があって敏捷でなければ出来ぬ芸当である。
 
先生はまた多技多能で、往くとして可ならざるなく、いろいろの余技をもっていたが、弁舌に至りては木戸松菊が横井の舌剣と評した位で、其の快辨弁には何人も魅せられ悦服させられた。武芸に至りてはあの様な学者であの様に武芸に達した人は珍らしいと云われたほど槍・剣・居合・泳・犬追物など何れにも勝れていて、中にも居合は上手を通り越して名人の域に達していた。京都寺町で最後の遭難の時、かの老体で、而も長い間の病気にて大いに弱って居りながら、素早くも駕籠より立ち出で、短刀を以て数人の刺客と渡り合ったりは胆力もあり、すばしこくもあり、また剣道にも達していた事を如実に物語るのである。
 
又「小傅」の文中には「人に接するに畛域を設けず」とあるが、先生は貧乏侍の次男に生れ、種々の困苦と戦って来た人であっただけに、毫も士族らしい風はなく、下情にもよく通じていたので、その態度は上にも下にも平等で、目上の人や友人や下々の者などとの間に特に待遇を異にする風もなかった。すでに天下の横井となって沼山津に閑居していた時分でも、先生は誰彼れの区別なく、百姓とでも商人とでも漁夫とでも、媼・嚊・権助とでも打組んで話をした。又先生の女ミヤ子が演者えの直話にもこのようなのがある。
 
父は、夕暮野良仕事をしまって馬に乗り鼻歌を謡いながら家路をさして帰りつつあるお百姓に出会いますと、其の人は直 ちに馬から飛び下りて下座せんとするのを、そのままでと押止め快よく眺めて通らせたそうです。今から考えれば些細なことですが、平民が馬に乗ることは許されなかった当時に於ては非常に有難いことで、横井の殿サンの様な方はないと云って嬉しがったそうです。こんな工合で近処のお百姓達とは非常に親しくして居ったと思われます。平等の精神が腹の底から流れ出た人であった様です。
 
又「小傅」には「人を憫むこと最も厚し」ともあるが、先生は人間味豊かで、頗る同情に富み、ことに門弟や下々の者に対してさうであって、農民などには同情した余りに、彼等の田植歌を耳にすると「あれは歌ではない百姓は辛いから泣いているのだ」とよく言ったそうだ。そして困窮せる農民があると自分の家計の豊かでない中から金銭米穀を貸したり与えたりした遺話がいくらもある。