横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十)

安政五年六月水戸・尾張両藩主と不時登城した廉で隠居謹慎中であった春嶽は、文久二年四月その責罰を解かれて政務參与を命ぜられたので、有力なる助言者を必要とするに至り、四たび先生を招聘すべく三岡石五郎(後の由利公正)を熊本に遣わした。

で、先生はその六月三岡等と共に熊本を発し、福井えと北行の途につき、敦賀の七里手前の疋田駅に到ると、思い掛けなく春嶽よりの急使が早馬で駆けっけ、江戸に来るようにとの直書を先生に渡した。

此の時江戸の形勢は、勅使として大原重徳と島津久光を迎えて正に暗澹たるものであった。勅使は幕政の改革を促進すべく、所謂「三方策」を幕府に命じた。その三策中最も重視せられたのは一橋慶喜将軍後見職に、松平春嶽政事総裁職に任じて幕政改革の中心たらしめようというのであった。幕府は之を奉承して春嶽にその任につくべく申渡すと、それ迄にすでに幕府の態度が気に入らないで政務參与を辞しようとしていた彼は之を固辞したが、諸方面ことに勅使よりの切なる勧告があって、自分の進退を決し兼ねたので、先生の意見を聞かんがためいそぎ呼び寄せたのであった。
 
先生は疋田駅より早打ちで夜を目に継いで東行し、七月六日の黄昏江戸霊岸島の福藩別邸に着し、早速春嶽に面謁し、その進退につきては「是迄切迫の御揚合に相運び候へば、兼て御評議の通り御出勤にて、幕府の私を捨てられ是迄の御非政を改められ候様御十分に仰立てられ、其の御論の通塞により御進退を御決に相成可然」と申し進めたので、春嶽もなるほどと之に従った。

先生は其の翌朝から大目付大久保越中守(忠寛)に面会してその内意を伝え、併せて当面の政治問題について談を交えた。春嶽は九日登営すると、将軍より「叡慮を以て仰遣はされたるに付政事総裁職を申付る」との台命を蒙り、慶喜も後見職を拝命した。

それより春嶽は、幕府として当今の時局を処するの道は従来の如き権柄を以てせる公儀流の私を捨て、宜しく天下万民の為に公共の政をなすにあるを開陳して、将軍を始め後見職・老中等の同意を得たが、これは先生がかねて抱いていた持綸であった。なお春嶽は先生の建言に基きて左の「国是七條」をも提出した。

   一、大将軍上洛して列世の無礼を謝せよ。
   一、諸侯の參観を止めて述職と為せ。
   一、諸侯の室家を帰せ。
   一、外藩譜代に限らず賢を選びて政官と為せ。
   一、大に言論を開き天下と公正の政を為せ。
   一、海軍を興し兵威を強くす。
   一、相対交易を止めて官交易と為す。

右は当時の幕府にとっては之を採用するのに非常の英断を要する問題であって、ことに初めの三ヶ條の如きは開幕以来二百年に亘る徳川家の権威を根底的に揺がすものであるので、老中の意見とは大分距離があって、幕廷一般の空気には躊躇逡巡頗る煮え切らぬものがあった。之に憤慨した春嶽は此の月廿四日より引寵って仕舞った。然るに此の「七條」はもともと小楠先生の建言によることは明らかであったので、後見職や老中等は、こもごも先生を招いて論議する所あった。先生は各條に於ける抱負と経綸とにつき其の抱懐する所を遺憾なく吐露した。