横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その三)

天保二年時に先生二十三歳。父時直急逝し。兄時明父の知行そのままにて家督を相続して出仕の身となったので、先生はその厄介者となって通学していたが、同四年居寮生を命ぜられ、日夕菁莪斎に寝食することとなった。

先生の才器はますます認められて、七年四月には講堂世話役に、同十一月には居寮世話役に挙げられ、その翌年には居寮長(塾長)に抜擢され、心附として毎歳米十俵を下賜されることとなった。

時年二十九歳。先生が小禄の家の二男でありながら、かくの如くとんとん拍子で藩学に於ける秀才中の王座を占めたのは、非凡の秀才で、而も精励抜群であったによるは諭を待たぬ。

先生の栄進はこれに止まらず、居寮長たること僅かに二年にして、十年三月江戸に遊学を命ぜられた。

当時藩を出でて他所に自由に遊学することは許されて居らず、特に抜群の秀才にして始めて公に藩命を以て許されることになって居て、肥後藩では享保十三年秋山玉山が江戸遊学を命ぜられて以来その後をついだものは僅かに十指を屈するに足らない程なので、遊学は藩の学徒としては最上の栄誉である。

当時に於ける藩当局が如何に重く先生を視ていたかが分かる。
 
先生は刻苦螢雪の功空しからず、池中の蛟龍雲雨を得たる思いにて欣躍として遊学の途についたのは十年三月であった。

学友に送られて熊本を出発、大津に一泊して、ここで学友と袂を分かち、阿蘇を経て豊後路に入り、兄時明が郡代を勤めている鶴崎に数日滞在して、三月十七日同港を出帆、海路大阪に向った。

大阪からは東海道を急ぎ東して、四月十六日憧れの大江戸に草鞋の紐を解いた。此の行は先生にとっては最初の長族行であり、見るもの聞くもの感興深く、その記録は「東游小稿」なる詩集となって遺っている。