横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その一

五 開国論と世界平和論

小楠先生には名論卓説は沢山にあって、その多くは先生の語ったものや書いたものが纒まった文章となつているので、拙著「横井小楠遺稿」にも収録してあるが、掲題の二論は纏まった文章になっていないので「遺稿」にも漏れている。けれども、此の二論は先生の持論として最も有名であり、又今日我々が平和的日本を建設しつつある上に大いに示唆を与うるので、色々の文献中から拾い集めて述べることにした。
 
幕末に於ける外交に関しては三党がある。第一は鎖国的(徹底的)攘夷党であって、徹頭徹尾外人を夷狄視し、之に迫られて国を開けば国家顛滅の端を開くことになれば、決して之を近ずけてはならぬというので、滔々たる凡衆は皆此の党に属した。

第二は開国的攘夷党で、これには二派がある。甲は国際場裡に於ける我が国の立場からして、開港の已むべからざるを知るけれども、当時の世態に際して無條件に開国すれば、頽廃せる士気は振作せず、人心外に屈することに立ち至るから、一戦して人心を警醒し、内では遊惰苟安の夢を破り、外に対しては我が国の侮るべからざるを示し、しかる上にて列国と和すべくば和せんとする者で、之には藤田東湖吉田松陰等が其の翹首であって、各藩に於ても通常攘夷党と称せらるる者のうち、時務に通じたる首領は多く此の意見を有し、諸藩の下級にあって志を得ざる者、幕府の大臣に怨みある者、幕府の顛覆によって利を得べき諸侯・公卿、少年気鋭にして功名の念あるものは皆此の派に属していた。

乙は現在の我が国の武備では、外国と戦うのは勝敗の数すでに明らかで得策で無く、鎖国自ら弱わむるのも愚策であるから、暫く列国と和を通じ、彼の文物・工芸・兵法等を学び、国力の富強となるを待ちて後に彼を攘わんとする云はば方便的開国論で、恐らくは幕府の当局者を始めとして当時の所謂賢明なる大名その他の中にて最も多く行われたる意見であったらしく、佐久間象山は其の麹楚であった。

この甲乙二派は同一系統に属しながら、互に相抗撃し、甲は乙を罵って臆病にして国を売るるものとし、乙は甲を罵って無謀にして国を過つものとして、甲は却って鎖国的攘夷党と相合し、乙は次ぎに述ぶる党と連絡していた。

第三党は勇進的開国党であって、当時の世態形勢よりして一国の富強独立は唯だ国を開きて列国と交り、万里の波濤を開拓するにありとなして、純然たる自由貿易の議論を主張し、開国の一事を危険とせざるばかりか、開国せざるを以て国家の患害となし、目前一切の事情に拘泥せずして、四境を開かんとし、開鎖の利害は毫も論ずるに足らずとなせる所謂開国進取の説にして、当時に於ける最も進歩したる論者の意見で、列国の形勢文明の事態に通じたる幕府の外交官、蘭学者などに之を主張する者多く、民間志士の群に於て其の他首たるは実に我が小楠先生であった。又当時たまたま斯る意見ある者にても言禍を慮りて之を思い切って天下に公唱したものは、先生を外にしては頗る寥々であった。