横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その五)

先生は十一年三月三日帰熊の途についた。帰路は新宿から甲州街道を西に進み、甲府から中仙道に出で、木曽路の難を踏破し、関ヶ原・京都・伏見を経て大阪に出た。それからは昨年の往路と同じ路をとったか別の路をとったか明らかでないが、四月の中旬か下旬に帰着して文字通り兄時明の厄介者となった。
 
数月後藩政府は先生に七十日の逼塞を命じた。先生は之に対し、藩府重役が憂慮したように、気力を失い勤学も出来かねて逸れ出したであろうか。先生の性格は過ぎ去った後方を振り返ってくよくよ考え込むよりも、進むべき前方を眺めて躍進する底の人であって、勝海舟は「小楠は何でも失敗した者が来て善後策を尋ねると、其の失敗を活用して都合の好い方に遷らせるので、実に禍を転じて福となすことに妙を得ている」と評しているが、今回の自分の失敗に於ても亦そうであった。先生は江戸出発の頃からの決心通りに、帰来世間の喧しい批評も藩府からの巌しい所罰も甘受して、気力も失わず逸れ出しもせす、却って門を閉ぢ客を謝して一心不胤の勤學に取掛ったのである。その失敗を活かして将来の大成に利用するのが先生の凡人にすぐれた所であろう。徳富蘆花の書いたものの中に、

江戸から不名誉の帰国をした横井平四郎は、兄の家の六畳の 一室 に謹慎しました。頗る貧乏で、その六畳の畳は破れ、壁はぼろぼろに崩れ、雨戸が無いので藁蓆を軒からつり下げて雨風を防ぎ、縁は青竹を束ねてありました、下男は一人居ましたが、手不足なので部屋住の平四郎は、時には飯 炊き水汲みなども手伝いました。而して其間には六畳にぢっと座って、学問の仕直し、人生観の建て直しをしました。
とある。まことに当時の先生の物心両方面の生活を評し得て妙である。
 
かくして先生は内外の精神的打撃に打勝ちて涙ぐましい堅苦刻励を以て更生の第一歩を踏み出し、一歩一歩と力強く新しい道を拓き且つ進んで行った。

此の間一面には時習館時代からの盟友なる長岡監物(米田是容)・下津蕉雨(休也)・荻麗門(昌国)・元田東野(永孚)等と屡々会合して、講学論究相互に切瑳琢磨を積んだが、段々志を同じうする者は先生等の周囲に集まって来て、道学の講究に勤しみ、修身斉家治国平天下の道に工夫を竭くすに至った。

そして此等同志は小楠先生が時習館在寮中よりの持論であった「文義の研と字句の穿鑿(センサク)とに傾ける時習館の学風は学問の本領とは云えない、宜しく詞章記誦の学を棄てて実践躬行を本領とすべきである」を主張するに至って、これまで通りに時習館の学風を墨守する人達(学校党)は、先生等の同志一派を実学党と称するに至り、両党は学意の上からも又感情の上からも相対立して互に鎬を削った。

実学党の領袖としては門地声望では長岡を推したが、其の魂は先生であったので、先生は該党を好まぬ輩からは目の敵としていろいろの冷罵酷評を加えられ、藩政府からも官学に弓を彎く異端者の如く睨まれて、其の覚え頗る目出度くなかった。