横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十一)

此の間に於ける議論を述ぶれば頗る興味があるけれども今は割愛するが、後見職はじめ各閣老はいずれも先生の蓋世の卓識に驚嘆すると共に「七條」は大体に於て行わるる運びとなり、春嶽も亦出仕することになった。

かくなったのは先生出府後二ヶ月間のことで、沼山津の片田舎から大江戸の真中に出て来て、僅かの間で幕議を此処まで引摺った所の先生の力は如何にも偉大といわねばならぬ。

一橋後見職は閏八月十二日自邸に先生を招き、先生の意見を聞きもし、議論もしたが、大いにその識見に感服し、其の翌日春嶽に向って「昨夜横井平四郎に対面せしに、非常の人傑にて甚だ感服せり、談話中隨分至難と覚ゆる事柄に尾ひれをつけて問い試むるに、いささか渋滞する処なく返答せしが、いづれも拙者共の思へる所より数層立登りたる意見なりし」と話したと云うことである。

かく幕府が内外多事の際その高邁なる識見を以て乱麻をたつが如き鋭なる判断を下し、幕府諸有司をして舌をまかしめた先生の、存在は、さすが人材を擁していた営中に於ても甚だしく重要視せらるるに至り、破格の抜擢を以て先生を幕府の奥詰に登庸して枢機に与らしめようとの議が持ち上った。

一介の陪臣たる先生にとっては、まさに破天荒の仕儀、実に無上の栄誉として之に感じたであるうと考えるのが一般の常識であるが、先生は細川家に対して相すまずとの理由で辞した。

而も非常の秋には非常の人材を要するのであって、幕府に於ては先生の辞退によって更に再び細川家より借受けの形式で先生を起用せんとしたが、矢張り先生は飽くまでも主家に対する心操を重んじて固辞したので、遂に沙汰已みとなった。肥後藩も此時ばかりは感心だと先生を賞めたのであった。
 
幕府が勅使の大原・島津を迎えている間に、京都の形勢は一変して、長州を背景とする破約攘夷論は土佐攘夷派の參加によってその勢い猖獗となり、公武合体を主眼に置いて東西に奔走していた島津は到底為すべからざるを察して、江戸より帰洛後直ちに帰藩した。

かくて十月になりては三条実美姉小路公知が正副勅使となって攘夷を幕府に督促すべく下向し、幕議は大いに紛糾したが遂に之を奉承し、三年二月将軍上洛して攘夷の期限及び方法を朝廷に奏聞することになった。

その間に於ても京都の尊攘派はいよいよますます跳梁し、島津帰藩後の京都は長藩の独り舞台の観があり、薩藩はこれ迄とは打って変って振わなかった。

とは云うものの、薩藩の勢力はなお諸方面に潜在していて、同藩でも窃かにその勢力の維持と発展とにつき機を窺っていた。

それを見て取った小楠先生は誠心誠意、治国平天下の実をあぐるのには須らく海内の智謀名君を会同して衆議をつくし、真の公武合体挙国一致の政治を施さんことがその理想であったので、その実行方法として先づ島津久光父子に上京を促がし、関東よりは春嶽及び山内容堂等入洛し、青蓮宮を始め近衛関白その他の同志公卿と謀を通じ、一挙にして京師尊攘派の勢力を失墜せしめて以て公明なる国政一新の大策を樹立せんことを春嶽に建策した。

春嶽はこの策を容れ、先生をして薩藩有志と相謀らしめ、容堂も亦此の策に同意したので、三藩相提携して公武合体派の連合運動に乗り出すことになり、後見職並びに老中等も漸くその計画に賛意を表するに至り、茲に先生の筋書はいよいよ実行に移ることになった。

そこで春嶽は、明年二月将軍上洛の機を逸しては公武合体の理想実現はむつかしいと考え、将軍に先んじて入京し、容堂と共に久光を迎えて大いに為すあらんとした。

此の計画の黒幕たる先生は之に隨行する筈であったが、意外な災難がその身辺に降り掛って惜しくも上京の機を失って仕舞った。