横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その九)

処が、安政四年に至り、福井藩よりの招聘問題が起った。同藩主松平春嶽(慶永)は当時の大名中では傑出した人物で、近年米国をはじめ外船頻りに渡来し、隨つて国内の人心恟々として容易ならぬ時勢となれるを深憂し、一方には屡々幕府に建白する所有り、一方には領内の兵備海防と一藩の文武振興とに心を砕いていたが、此等のためには倶に謀るべき人材を必要し、適者を広く天下に求めつつあるうち、かねて先生の学識及び才器の非凡なるを家臣共より聴かされていた彼は、安政三年末に先生から家臣村田氏壽に寄せた書翰を見て、遂に先生を賓師として招聘することに決心し、村田を遠く熊本に派遣し。内意を直接に先生に伝えしめた。

村田は春嶽の「愚かなる心にそそげひらけたる君の誠を春雨にして」なる国風をものした短冊を携えて四年五月十三日熊本に着し、沼山津に先生を訪うて春嶽の内意を伝えた。先生の臥龍も少しばかり痺れを切らしていた所だったので早速これを諾した。

それから福井藩主より肥後藩主に招聘の手績きをとる事になって、八月十二日春嶽は肥後藩主細川斉護に、先生を藩学教授として招聘したき旨の書面を贈った。

もとより自藩に先生を用いる意志のない肥後藩ではそれに対し直ぐにも承諾してよさそうに思われたが、かねがね先生を目して僻物となして居た同藩では、兎角他人と調和し難い先生の性格がもし福井にて不都合の事を惹起してはと杞憂して、之に応ずるのを好まず「小楠はさし出してもお役に立つ男ではない、自藩でさえ用いぬ難物を特別の開係ある御家(春嶽夫人は細川家の出)に薦めるのは万一の揚合申訳が立たぬ」と謝絶すると共に、福井藩をして其の招聘を中止させようと先生の人物を中傷すべくいろいろと策を運らした。それにも拘わらず、春嶽から、先生の長所も短所もよく承知しての事で少しも心配は入らぬ、若し当方の相談に応ぜられねば自分の面目が立たぬことになるとまで申送ると共に、一方では肥藩の世子にも執成をたのんだので、肥藩主も遂に拒絶するに由なく、五年三月に至りて先生の招聘を承諾する旨を福藩に通告した。
 
此の招聘交渉は先生を福井藩学明道館の教授にとあったけれども、其の実は藩政はじめ其の他の機務をも諮問しようと云うのが春嶽の本意であったので、藩は先生を待つに上賓の礼を以てして五十人扶持を与えた。

自藩には容れられずして城外の寒村に貧しく蟄居した一介の老書生が一躍して三家に次ぐ家柄たる雄藩の賓師に迎えられた此の事実は小藩に於てはいざ知らず大藩ではその類例に乏しく、池田光政岡山藩主)に於ける熊沢蕃山と上杉治憲(米沢藩主)に於ける細井平洲位であろう。

先生の招聘は只の一度ではなくして前後四回であって、その都度福井藩肥後藩の承諾を得たのであった。第一回は安政五年四月より同年十二月まで、第二回は同六年四月より同年十二月まで、第三団は万延元年二月より文久元年十月まで、第四回は文久二年七月より同三年八月までであった。かく四たび招聘せられた間に先生は或は福井に、或は江戸にあつて、春嶽及び藩主茂韶を啓発補佐し、藩士を教導誘掖し、藩政の諸方面特に殖産貿易に尽瘁した功績には頗る大なるものがあつて、維新前後に於ける福井藩の善政美挙には先生の指導に因由するものが頗る多かったが、ここに特に述べたいのは第四回の招聘間江戸に於ける先生の活動である。