横井小楠先生を偲びて 2 「横井小楠傳」著述の動機 (その二)

熊本には昔から漢法医学が根強く広く行われていたが、小楠先生は之を斥けて頻りに西洋医学を鼓吹奨励した。自家は云う西洋医家の診療を受けるよう勧め、西洋医家とは親しく交わって之を鼓舞し、其の窮せる者は之を補助し、又西洋医学を学ばんとする者を先生の塾に入れて其の目的を達せしめるなど陰に陽に西洋医学の開発に力めた。

これが為に先生は当時の医者の殆ど全部を占めていた漢方医から甚だしい反感と迫害を受けたが、毫も意に介することなく西洋医学興隆に尽瘁した。なお特に述ぶべきは、明治三年肥後藩府をして、宝暦六年創設して百十六年間も続いた漢法の医学校再春館を廃して、西洋医学を興すべく古城医学所及び病院を創設せしめるの機運をつくったことである。

此の医学所及び病院は和蘭医官マンスフェルトを聘し、西洋医学に堪能なる邦医数名を教官とし、北里柴三郎、緒方正規、濱田玄達をはじめ多くの名国手を出し、我が国医学界に大なる貢献をなしたが、もとは肥後藩政府に挙用された山田武甫、安場保和等の発議によって実現したもので、山田も安場も先生門下の錚々たる人であり、又その組織に見ても、教職員は田代文基を除けばいずれも先生の門下生に非らざれば縁故者ばかりであった。

又此の医学所及び病院は明治八年に結社人の手に移されて公立通町病院及び教場となったが、これを維持することに尽力した人も亦ほとんとすべてが先生の門下であった。

右医学所及び病院は肥後に於ける西洋医学を開発進歩せしむると共に、西洋医学の強固なる基礎となって実に一新時代を画したものであり、通町病院及び教場も亦その後に起った県立医学校及び病院の連鎖となって肥後医学教育の中絶を救い、西洋医学勃興の頓挫を免かれしめたのであった。

これ等の医育機関はたとい先生歿後に建設されたとしても、先生無かりせば恐らくはその建設さるる機運は生じないで、西洋医学は旧の如く漢法医学により圧倒され蹂躙されて居ただろうと思う。

かく考えて来ると、小楠先生の先見卓識は肥後の医学を勃興せしむる上に大なる力だったのである。先生が早くから西洋医学を鼓吹せなんだら、その友人門下たる人々がその開発の為にああまで力めなかったかも知れぬ。

さすれば、肥後の西洋医学寛永の昔にその根をおろしたとは云え、今日の如く隆盛を見ることが出来たかったであろう、隨って今日の官立医科大学の実現などのことなくて終ったに違わぬ。そう思えば、小楠先生は肥後の西洋医学の大恩人である。