2009-12-01から1ヶ月間の記事一覧
処が、安政四年に至り、福井藩よりの招聘問題が起った。同藩主松平春嶽(慶永)は当時の大名中では傑出した人物で、近年米国をはじめ外船頻りに渡来し、隨つて国内の人心恟々として容易ならぬ時勢となれるを深憂し、一方には屡々幕府に建白する所有り、一方…
三宝 第148号 「仏教は初中後一貫して施業」 田 辺 聖 恵 人は誰でも豊かに幸せに生きたいと思う。それは何故かと云うと、どうも理由が見付からない。人間は何故生きるのかと、改めて自分に問うてみて明確に答え得る人は非常に少ないであろう。 古来、宗…
三つの座席 時に世尊、ビク衆と共にコーサラ国へ正導の旅をなされ、、ベーナーガプラ村に入りたまえり。村のバラモンの在家者らは世尊のみもとに参り、一方に坐して申し上げたり。 「世尊ゴータマよ。世尊の御からだは静かにととのい、御顔は清らかに輝けり…
『活気 形をなす』 活気 形をなす 溢れるような生命衝動があれば 何かをせずにはいられない 活気をいかにして再生産するか もともとそれは生命衝動であるから 衰亡旺盛は己を原因とし己次第だ 一度び形をなせばそれは活気を呼ぶ 形なき活気と形ある形の循環…
嘉永六年米使ペリー来航するや、弘化四年以来家老職を辞していた盟友監物は相州に於ける肥後藩警備地の総帥に起用せられたり、前述漫遊中萩にて尋ねたけれども面会するを得なかった吉田松陰が海外視察の目的を以て長崎に来舶中の露船に搭乗せんが為に江戸よ…
善と善因 善とは幸福である。幸福とは簡単に云えば欲望の充足である。従って価値がある場合もあれば、むしろ反価値の場合もある。ガンに必らずなるというタバコを吸って満足しているのも、一種の幸福である。しかし、あまり自己の生存と価値への方向づけ、社…
三つの邪見 時に世尊、祇園精舎にてビクらに法を説きたまえり。 「ビクらよ、ここに三つの邪見あり。その第一は、人間がこの世において経験なす、いかなる苦も楽も、苦にあらず楽にあらずも、すべて前生の行いの因によるとの主張なり。第二はこの世のすべて…
『自由と限定』 野放しのような自由の中では 本当の幸せや喜びを得られるか 第一野放しにあって生きられるか 様々な拘束限定の中にあって ただただ順応する生き方と スプリングボ−ドにする生き方 適度な自由適度な限定を求める 環境を自ら選択する生き方で …
先生は此の遊歴によりて其の力量と識見に重きを加えたことは言うまでもないが、交歓した名士中先生の意に満てる者は寥々として晨星の如くであったと見え、国に帰るや杖を投じて「鳴呼天下の広き与に一人の語るべき者なし」と浩歎したとの事である。然るに流…
釈尊に聞け 釈尊は一般の人々が、誰でも徹底した宗教の境地を求めるものではない-ということを見抜いて居られる。勿論それでいいというわけではないが、徹底を求めようとしない人々には次善の道を開かねばならない。そこでそれらの人々に対して業報論を説か…
チンチャー女の腹帯 時に世尊、サーバッティーに帰りたまえり。世尊への信仰はますます高まり、供養は水のごとく教団にそそがれたり。異教徒はこれをねたみ、チンチャー女にそのさまたげを依頼せり。それより日ごとサーバッティーと祇園精舎との道に、かの女…
『家と庭』 人の子が誰しも帰ってくる所 安らぎや喜びを得られる所 小さな故郷のような所 家庭 寝泊まりしたり食事するの家 走り回ったり植木を楽しむ庭 談笑したり相談したりの家族 家は自然から身を守る働き 庭は自然につながれる喜び 家と庭は生きてゆく…
『立て直し』 自己の立て直し 目的の立て直し 気構えの立て直し 計算通りに行かない人生 だからこそ計算も必要だ だからこそ初心が必要だ 時には障壁 時には支援と 予想外も多々あるものだが 中心核は自己の立て直しだ [立て直し] 自分の一人舞台でもない…
先生は以上の如く苦学修養すること四年にして、一日忽然として「吾之を得たり」と言って、其の得たる所を頒つべく家塾を開き、先生の学徳を慕い来る藩士や郷士の子弟を教授することにした。 その塾は小楠堂と名づけられ、はじめは微々たるものであったが、段…
三宝 第90号 1981年3月1日刊 「信に二種」 田辺聖恵 アイマイな信仰感情 信とは、ま心、二心なし、澄みわたった心、という意味であるから、二通りも三通りもあるわけはない。今ここで信を二種とするのは、徹底するか、徹底しないかで一応の分け方を…
五人の天使 時に世尊、サーバッティーの祇園精舎にとどまりたまい、ビクらに法を説きたまえり。 「ビクらよ、たとえば門ある二つの家ありて、そこに見る目をそなえたる人が中央に立ち、人々が出入りするを見るがごとく、われもまた清浄にして、常人を超えた…
『オアシス』 大疑は大信のもとと言われるが 何ら疑いを持たぬは軽信になり 疑いを解くには熱心さが要る 大いなる疑いに二種があろう 信じ様としない根深い疑いと 人生の根本に関する疑いと 疑いがなければ解ける喜びはない 信がなければ生きる活力もない 砂…
『手作り人生』 野生とは手作りの生である 自ら行動し自らエサを取る それは手と足のフル回転だ 小さなメダカであろうと 一日寄り掛からず怠けず 水の中を泳ぎ続けている 人間の文化は手作りから 自分の人生も手作りから 手作り人生は活力で一杯 [手作り人…
先生は十一年三月三日帰熊の途についた。帰路は新宿から甲州街道を西に進み、甲府から中仙道に出で、木曽路の難を踏破し、関ヶ原・京都・伏見を経て大阪に出た。それからは昨年の往路と同じ路をとったか別の路をとったか明らかでないが、四月の中旬か下旬に…
「釈尊は乱世に生き乱世を正導して行く」 ブッダとは指導者救済者の意味で人間だからこそそれをなし得るのですね。それは真理をもっての事だからです。これからの仏教はこの真理を中心にする事によって実効のあるものとなるでしょう。精神的な乱世と言える今…
『小さな感動』 小さな感動を拾ってゆく 人が豊かになるにはそれで充分 それならどこにでも在るからだ 小さな感動は食事に似ている 毎日々々 欠かせないものだし あれこれとバランスも必要だ 小さな感動には資格もいらない 風船がすうっと上がってゆく様に …
形式と内観 時に世尊、マッラー人のアヌイヤ町に入りたまえり。托鉢の中途。修行者バガバを訪れたまえば、バガバはスナカタがシャカムニのみもとより離れたるを申し上げたり。 「バガバよ、おんみの言えるがごとし。スナカタは先日わがもとに来たり、超人の…
『天地の間に』 天地の間における位置付け そこに自分の座りがある どの様に生きるのかと 社会対応の明け暮れでは まるで自分は見えない 座席の取りようもない 天地の間で呼吸する そこに自分のいのちがある だから自分の生き方となる [天地の間に] 社会や…
先生は齢已に而立を踰えた男盛りで、文武両道に達し、一廉の見識を備えていたので、今回の遊学は今更文武芸を専攻する学生生活に入るのではなくして、西南僻遠の藩地では到底接し得られない天下の宿学大儒の門を叩いて親しく其の学風に接したり、諸藩の英才…
三宝 171号 「行動による変革の仏教」 田辺聖恵 特に宗派の専門的な仏教書を読むというのでなく、ごく一般的な仏教入門書を読まれた方もかなり多いであろう。そうした入門書にはたいがい原始仏教つまり釈尊の教説にふれている。つまり「縁起説と四諦説」…
超人の法 世尊、ベーサーリーの郊外の森にとどまりたもう時、世尊のサンガより去りて間もなきスナカタは人々に言えり。 「シャモン・ゴータマに超人の法なし。またすぐれたる智見なし。かれみずから考慮せる思いつきの法を説くのみなり。その法によれば、思…
『生きると暮らす』 いのちを生きるのは難しい ただ生きるのとは違うからだ 仕事に明け暮れとは違うからだ 飲み食いをしておシャベリをして いつの間にかイビキをかいている そんなのとはまるっきり違うのだ いのちを大切にするのは難しい 何故ならいのちか…
『流れ』 日々月々がどんどん流れてゆく 絶えることのない川の流れの様に 人々の苦しみも悩みも知らぬげに 平凡の積み重ねが人生ではあるが こうも薄っぺらの毎日では 野の草花ほどにも輝かない 確かさとか真実とか価値とか 言葉をいくら並べてみても 鳥のよ…
『情報時代』 様々な情報知識も必要だが 適切な選択知識こそ不可欠 それらが使える知恵となる 様々な知識は溢れているが 心の栄養は不足になり易い それらが自分らしさを作る 何を求め何を選び取るかは 自己基準があってのことだ それが自分の根幹だからだ …
天保二年時に先生二十三歳。父時直急逝し。兄時明父の知行そのままにて家督を相続して出仕の身となったので、先生はその厄介者となって通学していたが、同四年居寮生を命ぜられ、日夕菁莪斎に寝食することとなった。 先生の才器はますます認められて、七年四…