横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十ニ)

尊攘派はかねて先生を開国論の首魁で、而かも佐幕の奸物と目し、攘夷を促進するには先づ先生を除くべきであるとしていそれを決行することになった。

そうすると肥後藩の志士堤松左衛門は自藩の奸物を除くのに他藩同志の手をかるを屑しとせず、自ら之に当らんとして、同藩士黒瀬市郎助・安田喜助の両人を語らい、十二月十九日の夜先生が同藩士吉田平之助・都築四郎等とか玉ヶ池の某料亭の二階座敷にて酒宴中であるのを襲うた。
 
夜は初更を過ぎた頃で覆面抜刀の怪漢二人は懸声諸共躍り込んだ、何れも大小は床の間に置いて打寛いでいた中に、梯子段に近く坐っていた先生は素早く立ち上って賊を遣り過したものの無手では立ち向うべくもないので、身を翻して階段を駈け降りようとすると、其の中程で又一人覆面抜刀で上って来た。それも巧みに摺りぬけて戸外に走り出で、十町ばかり隔った常盤橋の福井藩邸に駈けつけ、差替えの大小をとるより早く現場え引返したが、もう刺客の影は見えず、吉田と都築とは疵を負うて倒れていて、吉田はその後深手のため遂に死去した。
 
先生は此の如くして身に一毫の傷も負わなかったが、先生が少しも敵に立ち向わず、且つ朋友を死地に残してひとり脱出したのは、武士に有るまじき振舞で、士道忘却だとの非難が肥後藩邸内に起り、同藩重役では直ちに先生の身柄を引取って国許に送還するに一決し、その旨を福藩に通じた。

然るに、福藩の方では先生の今回の行為を寧ろ当然の事とし、若し今肥後藩の要求によって先生を引渡さば、同藩邸で如何ほど警衛したとて安心は出来ず、其の上国許へ送還するとせば道中は猶更の事、肥後に婦りついても彼の地は先生にとり敵中同然で、何れにしても危険は免れ難い。

さてまた福藩邸に預るとしても、春嶽の在府中は兎に角、近々上洛せば忽ち手薄となって、迚も護衛は覚束無い、さりとて京都え同伴する事の不可能なるは言う迄も無い。どうも此際万全の策とては無いが、此迄非常に寵遇した先生を今回の事件の為に手放して危地に曝らすとあっては、春嶽として啻に愛士の誠意が立たぬのみならず、延いては天下有志の信望を失うことにもなるから、何としても先生を肥後藩に引渡してはならぬ。

もともと先生は春嶽が肥後藩主と直接交渉の結果借受けたのであるから、春嶽明春上京の上で同藩主とこれ又直接に交渉すべく、それ迄は先生の身柄を当方に預るのを上策となし、之を肥後藩に申込んだ。肥藩でもそれを承認したので、先生を福井に向わしむることにし、先生は二十二目の夜世人の眼を晦まして極秘裡に福藩の重臣二人に護られて江戸をたって北行した。先生の此の失脚は明春京都にて其の頽勢を挽回せんとせる公武合体派の連合運動にとっては、何物を以ても償いがたい損失であり、又文久の幕政改革をも龍頭蛇尾の姿とならしめ、返す返すも遺憾であった。
 
先生は肥・福両藩主の直談あるまでは福井に滞在することになったが、其の間でも決して拱手しては過ごさずに、同藩のため種々画策しつつ掉尾の活躍を試みた。即ち先生が江戸で書き下した筋書通り、容堂は三年一月廿五日、春嶽は二月四日入洛し、慶喜も将軍も入京したが、尊攘派の跋扈は名状すべからざる有様で、春嶽は手も足も出なくなり、遂に三月九日辞表を提出した。

此の際に於ける春嶽の辞職は容易ならぬことであるので、慶喜及び閣老等はしきりに留任を勧告しつつあるうち、春嶽は其の聴許をまたず同月二十一日倉皇退京し。一方島津久光も一二月十四日入京したが、攘夷派の勢力旺盛でどうすることもならず、滞京僅かに四日にして退京し、山内容堂も同二十六日帰国の途についたので。京都に於ける公武合体派の連合運動は完全に失敗に終った。