横井小楠先生を偲びて 1 緒言 (その二)

先生が此の如く東亜の偉人とまで云われるのは、どう偉いのか、先生の本領は果して何処にあったであろうか。先生は恰も雲間の遊龍で、吾々風情の者ではなかなか描きにくいが、古人の所謂「大上は徳を立て、次は功を立て、その次は言を立つ。久しうして廃せず、此をこれ不朽と言う。」なる「三不朽」の語に照らして、先生の人物を窺って見ると、先生は其の身に徳を立てて率先躬行以て天下を風化する底の大上的有徳者には未だ達していなかった。次に功を立てて天下を救うことは、もとより先生の志ではあったが、政治の実際は先生自身には之に当らずして負担せしめた。それは先生自ら己を知つていた為であろうが、又好みもしなかつたらしい。

元田東野が先生の親友なる荻昌国に、先生を評して「王佐の才」「帝者の師」と言ったのを聞いた先生は「吾れまた之を知る、吾れは執政の人に非なるなり」と自ら之を認めて居り、勝海舟も「おれはひそかに思った。横井は自分に仕事をする人ではないけれども、若し横井の言を用うる人が世の中におったら、それこそ由々しき一大事だと思った。その後西郷と面会したら、その意見や議論はむしろおれの方が優る程だったけれども、所謂天下の大事を負担するものは、果して西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。

そこでおれは幕府の老中に向って、天下にこの二人が居るから、その行末に注意なされと進言しておいた。

おれは横井の思想を西郷の手で行ったら、最早それまでだと心配して居たに、果して西郷は出て来たわい」と物語っている所などからすると、先生は最後の言を立てて一世を指導すること、これこそ真に先生が本領として自任した所である。

凡そ言を立てるには博学多識、胸中常に汲めども尽きざる無限の蘊蓄を要する。

又神智霊覚、時事に対する先見の明と臨機応変事を善処するの識あるを要する。

且つ之に加うるに、大胆に率直に所信に向って邁進する勇気が必要である。

先生は実に此等の要素を遺憾なく具えていた。これ先生が立言の雄として当時天下に並びなき第一人者と、人も許し自らも任じた所以であった。

かく考察すれば、先生は古人の所謂「三不朽」中第三位(立言)に立脚して、第二位(立功)に歩を進め、第一位(立徳)にはただ天理を説き大義を四海に布く上からのみ言及したものと思われる。


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