三宝聖典 第一部 六〇項 五人の天使

 五人の天使

時に世尊、サーバッティー祇園精舎にとどまりたまい、ビクらに法を説きたまえり。

「ビクらよ、たとえば門ある二つの家ありて、そこに見る目をそなえたる人が中央に立ち、人々が出入りするを見るがごとく、われもまた清浄にして、常人を超えたる天眼をもって、もろもろの衆生がその行いによって死に、生まれ、善きところ悪しきところにおもむくを知る。
 
衆生にして身口意の三つの行いにおいて善なる者、聖者をそしらず、正見をたもつ者は、その身こわれ生命終りたる後、善きところ天国に生ず。その悪しき者は生命終りて餓鬼、畜生、地獄の難所に生ず。そのかれを獄卒はとらえてエンマ王に見せしむ。

『この者は慈心なく、シャモンらしからず。家にありては長者に尊敬の心なし。王よ、かれに罰を与えたもうべし。』

時にエンマ王はかれに問えり。

『なんじよ、人の中に第一の天使を見ざりしや。』『王よ、われはかつて見ず。』
『なんじよ、かつて幼児が糞尿にてよごれ横たわるを見ざりしや。』『われ見たり。』
『しからばこれを見て、これ実に生ずるの法なり。生を超越し得ず。われは身口意によりて善をなすべしと思わざりしや。』『われは怠りてなさざりしなり。』
                                       『なんじは怠りて善をなさざりしために罰を受くるべし。なんじの悪行は父母のなせるにあらず、兄弟のなせるにあらず、神々のなせるにあらず。これらの悪行はなんじ自身のなせしことなり。ゆえになんじみずから、その報いを受くべきなり。
 
またなんじは第二の天使を見ざりしや。年八十、九十の老人なり。また第三の天使を見ざりしや。病める者なり。また第四の天使を見ざりしや。悪事をなして現世において刑罰を受け、さらには来世においても罰を受くる者なり。
 
また第五の天使を見ざりしや。死にゆく者なり。これらの天使を見るも、善をなさず、悪をなしたるなんじはその報いを受くべし。これより獄卒によりてはげしき刑罰を加えらる。されど報いのつきざるうちは、生命の終わることなし。』

時にエンマ王は思えり。
  
『世間において悪行をなさる者、かくのごとき刑罰を受く。われもまた人の位を
得たきものなり。如来が世に出でたもうに逢いたてまつり、その法を聞きで覚りを得ん。』と。」
 
かくのごとく説き終わりて、世尊は詩を唱えたまえり。

  「天使によりて  悟らずに    怠けてすごす  人々は
   永きうれいに  うちしずみ   みずから学ぶ  ことはなし
   まことの人は  これにより   正しき法を   怠らず
   執着なすに   おそれを見   生と死との   因を知り
   生死を滅し   解脱なし    安らぎを得て  楽しめり
   現世に覚りを  体得し     すべてのうらみ おそれなく
   すべての苦をば 超ゆるなり」
南伝一一巻下二三〇頁中部一三〇天使経