三宝 第90号  「信に二種」  善と善因

善と善因
 
善とは幸福である。幸福とは簡単に云えば欲望の充足である。従って価値がある場合もあれば、むしろ反価値の場合もある。ガンに必らずなるというタバコを吸って満足しているのも、一種の幸福である。しかし、あまり自己の生存と価値への方向づけ、社会性をまるで否定するようなものは一応、善、幸福とは云うべきではなかろう。善というコトバには、価値観がある程度含まっていると考えられるからである。
 
そうした善、幸福にプラスになることが、善因である。自己の善、他者、社会の善となることに積極的にプラスになることを善因という。それは、そういう意図を持つということと、その心が具体的な行動となるということを含むので。功徳とも云われる。功とは行動、徳とはその行動のつみ重ねによる価値ある人格が形成された、その人格を意味する。一般には功徳、ご利益があったなどと云って、努力もせずに棚ボタ式に何かが与えられたこととするが、こういうのは全く目先きの勘定で、後で差引きをさせられるから喜んでは居られない。
 
そこで幸せになりたいと、心がハッキリしてきたなら、さらにもう一歩どのようになりたいか-と具体的にその成った状態を考えねばならない。たゞ漠然とした幸福などというものは無いので、それは公式論、原理であるから、これに当てはめるには具体的願望でなければならない。いくら信仰しても幸せにならない-というのは、この結果というもの、目的を明確に具体的に画かないからである。
 
さて、目的は立ったとして、次はどうするか。三宝を信じることである。三宝とは、こうした基本原理(正法・真理)であり、それを体得指導される仏さまであり、そのまねをする弟子衆である。決して単なる不思議な力といったものではない。具体そのものである。

この原理を信じるから、やってみようという意欲が出てくる。そのやってみる行動は何か。施である。施とはほどこし、他に与えることであるが、物や金を与えることのみではない。善意そのもの、身体での行動もそうである。自分自身、仕事にせい出すのも、自分に対して努力を施与しているとも考えられよう。

つまり他に対して、己に対して、出来るだけの努力をし、他を喜ばせ、已も喜ぶことである。また一方では、人間は一人での存在ではないから、共存社会としてのルール、規律を守らねばならない。いかに善をなしても、一方で悪をなせば帳消しになるのは当然である。

具体的にしかも、最低五つは守らねばならない。殺・盗・淫・うそ・酒のみ、この五つを犯さないように努めるべきである。あるいはそれに近くする。あるいはそれを守った方がよいと信ずることである。信ずればいつかは実行にもなってくるからである。勿論これは信者のための規律であるから絶対的ではない。
 
さらには真理・正法を聞信し、学習し、自己の人間形成を高め深めることである。幸せだけを求めるという狭い人間にとどまらず、いくらかでも人間価値というものに近づくという要素を持つべきである。幸福を求める心と一見あい反するようであるが、幸福をよくよく考えてゆくと、価値ということの方向につながってくる。しかし価値を主にする気にならないのが信者の段階であるから、将来の見通しとし、人間としてのあるべき姿を望見することも大いに必要である。そのことが、極端な自己本位の幸福を追求するといった心を是正してくれるであろう。そして、最終的には、以上のようなことを体験、体得し、これを未だ知らず行わない人に正しく伝え、導いてゆくのである。この正導こそ、真の施というものである。
 
このように、次第に心と行いの高まりを見せ、やがては真理説へと教説が進められるのを、次第説と云う。順々次第に人間学の高まりを見るということである。
 
在家信者というものは、それなりに足が地に着いて幸福を求めるのでなければならない。そこに真理の学習がいくらかでも入っていることが、幸福観の浄化をするのである。従ってそれは浄福と云うべき幸福となる。このような在家の信者の信と、行動と結果、さらに次の知・信・行と次第に高められることこそ、釈尊が明確に指示された信者の道なのである。