三宝 171号 「行動による変革の仏教」 釈尊は乱世に生き乱世を正導して行く

釈尊は乱世に生き乱世を正導して行く」
 
ブッダとは指導者救済者の意味で人間だからこそそれをなし得るのですね。それは真理をもっての事だからです。これからの仏教はこの真理を中心にする事によって実効のあるものとなるでしょう。精神的な乱世と言える今日であるからです。

日本仏教の祖師方は、釈尊の時代はよき時代でその教えがよく弟子において実行され、実証成果が得られた時代だったと受け取り、さて今は(鎌倉時代)動乱の時だから、平安の時の釈尊仏教は通用しないという立場をとっておられる。こうした誤伝がされたのは、後期に作られて釈尊を理想化した伝記によるものである。

だが今から百年前に日本でも読めるようになった原始経典を読めば誰でも分かるように、実に動乱の十六力国が分立していた時代である。平和で安全保障をされていたなら、釈尊は後継ぎをして小国ながらも王様になっていたに違いない。だが強大な隣国の圧迫を子供の頃から知っていた釈尊は、その様な不安定なままの平和を求めるようないい加減な生き方をしようとはしなかったのである。

この力がものを言う政治的相対的な道に限界を感じられたのが釈尊である。人々を心底から平和にする為には政治では限界がある。これは今日の日本を見れば福祉を行政レベルでしかなし得ない事、そのことごとくが後追い行政である事を見ればば分かる事だ。

この動乱の中で、一人の人間か政治権力に左右される事なく、真の自由人になる道は何か。それは政治に限らず、一切の不安、無知からの脱却より外にはない。かくて出家という政治権力の外に立って自己を全うし、多くの弟子もその道を継承する事が出来た。信者諸氏はこれらを支援する、供養する事で参加する事が出来た。政治を是正しようと弟子をひたすら教育したのは孔子聖である。道は別であったが人々を愛し平和を願った事に変わりはない。

動乱の時代であればこそ、誰しも心底から納得出来る真理によらねば、すでにかなりな知性を得ている犬衆を納得させる事は出来ない。第一釈尊白身が納得出来ない。初めに掲げた『四聖諦』は釈尊が独白に構成された人間目的の達成法である。この解説には多少紙数を要するが、もし求めるなら誰にでも可能な道である。

「縁起」の真理を静思によって会得された釈尊は、これを誰でもが理性的に理解出来るように工夫された。それは当時の人々が高度な理性を持ち、よく分らぬままに救いを求めるといった事では間に合わなくなっていたからである。このようにカチット構築された方式でなければ真の正導救済が成り立たないからである。

その後釈尊は全くの無報酬で四十五年間、野宿の旅を続けながら正導して歩かれた。そうした仏像でない行動エネルギーは何所から出てきたのであろうか。それは動乱である。精神的動乱が精神的英雄を産み出す。さて今日、何人が動乱性を感じ取るであろうか。真の仏教はそうした鋭敏さの中からしか生じないのである。