三宝 第148号 「仏教は初中後一貫して施業」

三宝 第148号 「仏教は初中後一貫して施業」
                                 田 辺 聖 恵
 
人は誰でも豊かに幸せに生きたいと思う。それは何故かと云うと、どうも理由が見付からない。人間は何故生きるのかと、改めて自分に問うてみて明確に答え得る人は非常に少ないであろう。

古来、宗教はその答を出すものであった。神のために生きると云う答もある。本来の自分になり切るという答もある。人間らしく生きるというのも一つの答である。そんな事は一切考えないというのも答の一種かも知れない。人生不可解とする人もあり、すべておまかせというのも答になるかも知れない。
 
一体、何故宗教があるのであろうか。人が気付こうと気付くまいと苦しみがあるからである。昔から人類は三悪を持ってきた。「貧・病・争」の三つ。いわゆる先進国ではこの中の貧と病をかなり克服してきた。ところが争つまり戦争準備はますます巨大となり、物の豊かさを大いにそそぎ込むという、何とも奇妙なイタチごっこをやっている。貧苦をぬけ出した経済力がイクオール戦力というのでは、人類の未来に希望も持てないし、人間の尊厳も誇りも出てこない。
 
貧病からぬけ出す為に随分と信仰が使われてきた。巨大な仏像や仏殿が作られたのも、貧病からぬけ出したいという願望が主であったと云えないこともない。人はたいがい幸福切符を何かの形で手に入れたがるものである。日本も確かに貧からはぬけ出してきた。何しろ庶民までが万葉歌や王朝絵巻を楽しみ、ファッションは何でもかんでもコンビネート。ところが親年寄りの面倒は見ていられないという飛躍振り。こうしてそれが心の病いになりつつある事を気付かない。物に貧しい後進?地に観光?旅行をし、その地の人々の優しい心、美しい笑顔に感心してくるという、これ又何たる奇妙な話であろうか。つまり、物の貧をなくし、体の病気をなくしてきたら心の病いが静かに無気味に流行しだしたという事である。この豊か病に対しては医師もお手揚げと云う所であろうか。

これからの宗教とは豊か病を直すものでなければならない。釈尊の仏教はまさにそれであった。あったからあるに変えなければならない。釈尊は初め小国の太子、王の後継者であった。生活は何不自由ないが、何か霧がかかった様な心の状態であった。産みの母親は何故早く死んでしまったのか。この国は先で隣の大国に亡ぼされる危険がある。知的にも感性にもすぐれていたこの少年は、そうした漠然とした不安不満から、一体人間は何故生きねばならぬのか、人間には何故苦悩があるのかと、人生最大の難問を引き出してきたのである。従来の宗教学問はこれに確答を与えてくれない。これこそまさに「豊か病」である。

ピストルを持って自己防衛するのは当り前、自由を守る為には巨大力を持って闘わねばならぬというのがアメリカ方式であるならばこれは立派な豊か病ではなかろうか。そして日本は?  

釈尊は人間苦をまず「老・病・死」と突き止められた。それは生存の事実としての苦である。そうした苦をかかえながら、しかも何の為に生きるのか、その意味目的が分からない。もしその生存が無意味であれば、その生そのものが苦となる。こうして生か苦である という事実に行きつかれたのが釈尊である。こうなると従来の神々と一体になるとか、瞑想的優雅さなどでは間に合わない。つまりそうした高級豊かさ、幸福論では満足出来なくなられたのである。

生の意味は何か、こうして本格宗教の探求が激烈に行なわれる。そしてこの激烈方式ではダメだという貴重体験を経て、真の知恵による生存の事実観相をなされる。そして遂にその答を得られた。

「人間を含めて一切は縁起性のものである。」と。であれば人は縁起的に生きるより外にない。その生の事実・本質・筋道に反すれば苦しむ。その真理法に合して生きれば一切の苦悩は解決し、真の幸福になる事が出来る。これは何たる大発見であろうか。これこそ豊か病の克服である。人々の豊か病や貧苦からくる戦争に巻き込まれず、真の宗教的充実をもって八十年の生涯を生きぬかれた釈尊
 
ブッダ釈尊は真理法を発見し、それをそのまま生きられた。縁起とは一切が相関関係にあること、これに気付く者は相関的に生きること、これが釈尊の真の仏教である。相関的に生きるとは、自分の持てるものを施し合って生きる事である。握りしめ合う所には必ず闘争が生じる。はてしなく要求し合う所には傷つけ合いが生じる。
 
釈尊は握りしめ蓄えるものを一切持たれなかった。一大発見をされた真の幸福法を全部無料で、しかも自分から出向いていって縁を作り、その人に応じた解説・正導をなされた。真理法を無料で、施すという生き方をし、見本として示された。すぐれた弟子たち、尊者と呼ばれた人々もこれを見習って生きた。本当の「生き方」を生きた人々の一群が事実としてあった事は、大いなる驚歎である。
 
さてこの釈尊の正導を受ける信者群はどう生きたであろうか。中には徹底の道、修行をした人々も居た。だが大半の信者は、その直ちに幸福になれる道を実行して生きた。それは釈尊らが導かれる真理法が確かなものであると信じ、出来る限りの施を実行したのである。信者とは施者と云ってもよい。施すものがある事が真の豊かさである。握りしめは惜しみ心の苦しみをかかえ込む事である。
 
宗教者は財物を蓄えずして法を施し、信者は尊敬をもって財を施す、ここに相互互恵、縁起相関理法の実現がある。悟るとは分かって実行する事で、観念に逃避する事ではない。施業は直ちにも出来るが、一生出来難い事でもある。仏教は実行体験の宗教である。