三宝 第90号  「信に二種」 アイマイな信仰感情

 三宝 第90号 1981年3月1日刊

 「信に二種」
                                  田辺聖恵
   アイマイな信仰感情

信とは、ま心、二心なし、澄みわたった心、という意味であるから、二通りも三通りもあるわけはない。今ここで信を二種とするのは、徹底するか、徹底しないかで一応の分け方をするのである。数字の一も十も同じ数字であるが、少ないのと多いのでは表現が違うのと同じ。
 
徹底の信が求道の心、不徹底が幸福を求める信者の信と、ここでは一応分ける。徹底の信は、むしろ修行の行の中に入れられるべきであるから、これは後に述べるとする。在家信者でも求道熱心な方もあるから、こうでなければならないというのではなく、ごく一般的なあり方として、信者の信をこゝで考えてみる次第である。
 
何事でもそうであるが、人間のすることは、常に目的を立てるというか、意味を持たせるものである。タバコをプカーッと吸って無意味そうにしているのにも、休息という意味がある。ましてや人間生活の営みの中で宗教(信仰)ほど意味を求めるものではない。

「人間はなぜ生れてきたのか、何を求めるべきか」という人間の意味の問いかけに発し、その答を得るのが宗教だからである。
 
しかし、未だ宗教とまでゆかず、信仰の段階では、そのような意味の問いかけがかなりアイマイな時が多い。お正月に三社詣りをしたりする習慣を持つ人は随分多いが、その祭神がどういう神様か知る人はあまり居ない。熊本でも八幡宮にお詣りする人が多いが、祭神が応神天皇、つまり戦さの神であるということを考える人はまずほとんどない。もし知れば百円玉一ヶで一年中の無病息災や商売繁昌、交通安全までお願いするわけにはゆかないであろう。仏壇のある家も少なくなっているが、かりにあっても先祖の位牌を祭って、ご本尊である仏様がどんな仏様か知ろうともしない。時代劇などで位牌を持ち歩く場面がよく出てくるが、仏様(仏像)を持ち歩くということはまずない。仏様というと、亡くなった人を意味すると思っている人も多いのだから、信仰の対象をはっきりせることから始めねばならないのが日本の信仰状況である。
 
このように何を拝んでいるのか。何のために拝んでいるのか、拝んだらどうなるのか、といったことがまるではっきりしなくても一応拝むのだから、これも信仰の一種と云わざるを得ない。「何となしに」というのが日本的心情であることは確かだし、それが信仰面にも現われるのは一つの民族性として当然と考えるべきかも知れない。
 
しかし、このあるか無きかのかすかな宗教的心情をもって、それでよしと云うわけにはゆかない。なぜならば、それは今日のような人間の物質化、ひいては日本民族そのものの衰退化を座視しているわけにはゆかないからである。
 
そこでこのアイマイな漠然とした信仰感情をもっとハッキリした信仰心にまで高めねばならない。それには、人間そのものの理解が大切である。この人間理解が最高に出来た方がブッダ、仏様、歴史的にはインドに出生された釈尊である。従って仏教徒としての信仰を考え、人間理解(人間学)をするためには、釈尊の教説を聞法することが第一である。
 
日本に於ける仏教は、大乗仏教(北伝仏教)であるための、高遠な理想境ばかり説かれ、あまり熱心でもない一般信者の道が説かれていない。そのためにその高遠深刻な仏教論についてゆけない一般は、自己流のアイマイ信仰を作リあげざるを得ない。そこで今日最も急を要することは、一般的に誰でもなじめるような信者の道を明らかにすることである。