三宝 171号 「行動による変革の仏教」

三宝 171号 「行動による変革の仏教」          田辺聖恵

特に宗派の専門的な仏教書を読むというのでなく、ごく一般的な仏教入門書を読まれた方もかなり多いであろう。そうした入門書にはたいがい原始仏教つまり釈尊の教説にふれている。つまり「縁起説と四諦説」であると。そしてそれから後期の宗派的な大変難しい解説となる。これは仏教学者が書くからどうして学問的となり、哲学的な難しい話になる。それも漢文化された翻訳経典を引き合いに出しての文字解釈が加わるから大半の人は分からないという印象を受ける。そこから宗教心を発生させることはまず無いようだ。

これらの解説書は思想(哲学)を明らかにしようという意図のものが多いので、宗教そのものは余り説かれない。そこで仏教書の第一に必要な事は、思想と宗教の違いを明らかにする事である。

たとえば引力について。私たちは学校のどの段階で習ったかは覚えていないが、まず例外なしに大人は知っている。もっともこの頃は重力と言うそうである。これは物理科学思想である。この引力重力なしでは総ての生物生命は地球上に存在し得ない、簡単に言えばすべって転んで歩けもしないという事である。この位の事は小学生でも知っており、かつ分かる。大人はこれをうまく利用してカセいだりしている。だが誰一人、それつまり重力に感謝する人はいない。もしではなぜ感謝しないのかと問えば、恐らく「当たり前だから」と答えるであろう。つまり思想には感謝がないと言える。

宗教とは少々暴論的かも知れないが感謝である。ああ有難いとなるという事だ。どうして感謝になるかというと実行するからである。実行すれば直ちに反応手応えがあるし、またくり返えす事で身につく。身につくとは学習する前からすると際立った自己変革が生じるという事である。自己変革のない宗教はマユツバものだ。

この宗教に似ているのが通俗的な信仰である。信仰という言葉に限定すれば信つまり観念だから必ずしも行動を含んでいない。これは観念の変革はあっても全人格的な変革は生じない。人間は行動的存在であって観念だけの存在ではないからだ。

従来は宗教という言葉が余り使われず、信心という表現をしてきたが、これは行動を含んだものと考えるべきであろう。そうは言っても日本化された仏教はあまり行動的でなかった事を認めずばなるまい。日本では覚るかどうかの「行」は問題にするが、仏教者や信者の行動はほとんど問題にされていないという特質?がある。

以上のように思想・信仰・宗教と三つを並べ、人間としての行動と自己変革、それからくる感謝と比較すれば、今日、何故日本人が無宗教ですと平気で自己表現する理由が分かろうというものだ。

さて、『三宝聖典・第一部第十三項』をみてみよう。釈尊仏教の最特長である「四聖諦」の説明である。これは四つの論点というか自己認識から成り立ち、自己変革を徹底させるものである。

 現状認識(苦の真理)ー人間が最終的に苦の存在だと。
 原因分析(因の真理)ー無智的な欲望を主にするからだと。
 目的確立(徹底真理)ーいかにあるべきかの欲求自発をする。
 実行方式(実現真理)ー人間の全域にわたる行動様式の定則化。

これだけで自己変革が生じないという事は一読で理解出来よう。