三宝 第90号  「信に二種」  釈尊に聞け

   釈尊に聞け

釈尊は一般の人々が、誰でも徹底した宗教の境地を求めるものではない-ということを見抜いて居られる。勿論それでいいというわけではないが、徹底を求めようとしない人々には次善の道を開かねばならない。そこでそれらの人々に対して業報論を説かれる。
 
業とは行い、報とはむくい、結果である。善いことをすれば善い報い、幸せがくる。悪いことをすれば悪い報い、苦しみ不幸がやってくる。業報論(善囚-善果、悪因-悪果)これが人間の行動原理として確立していないことには、人間は幸福になれないばかりか、必らず不幸に落ちこむのである。ところが人間関係は複雑なために、一見すると、努力しても努力の結果がハッキリ出てこないということで、この基本原理を確信し、活用する心が鈍ってしまうということが多い。あの人はあんなに熱心に信仰にしているが少しも幸せにはならないーといったことがよく聞かれるが、これは原理に合致していないからそうなるのである。複雑な糸のモッレも、ゆっくりほどけばもとの一本になるように、基本原理は明解な一本の糸のようでなければならない。釈尊はあらゆる人間関係の理解を通して、この一つの基本原理を打ち立てられた。そして善を行っても、まだ善果が得られないと嘆ずる者に、こう云って釈尊は励まされる。

  善人もその善が熟さざるうちはわざわいをみる。
  されどその善が熟する時、かれは幸いをみる。


と。さて、その業報論を素直に信じるとして、一体幸いと楽、幸福自分は求めているのだろうか、と改めて已に問いかけてみなければならない。誰でも幸せを求めるのは当然だーと多くの人が思いこんでいるが、よくよく考えると、これも又、漠然としか求めていない、求めるというより棚からボタ餅式に、どこからともなく与えられるものと思っている人が多い。たとえば結婚すれば幸せになる、と思うようなものである。結婚を通して、愛情と努力(善因)が実行されて初めて幸せ(善果)がくるのであって、この善因をぬいたのでは、結婚という、幸せへの準備をしたに過ぎないのである。

 今日のように、一人か二人かの子供に、幸福を与えすぎ、さらに未来の幸福まで与えようと、親が何もかも与えすぎをやっていると、子供は幸福を求めるという心を育てることは出来なくなる。これは親の自己満足にはなるが、子供は自ら幸福を求めるものであるという人間の基本を奪われてしまう被害者として成長してしまうのだから恐ろしい。