「釈尊仏教とは三宝帰依なり」 信とは帰依

 信とは帰依
釈尊は仏教の開祖であり、真理を説く教祖である。仏教を開くということは、人々を教え導きたいという大慈悲、つまり心情、欲求である。教えるとは、真理を教える、つまり知能の徹底・了解をはかるということで、大智・知能の働きである。この大智・大慈悲はどちらが先ということでもなく、いわば同時のものであり共にあるから仏けなのである。

そのブッダ世尊であるところの釈尊は、「喜んで、熱心に聞け!」と言われる。喜び、熱心に聞こうとする、その純情さが、初めになければならない。教説を聞く前に純情さが育てられねばならない。感動の心がすっかり鈍化してしまっているのだから、まずその感動の心を育てない限り、仏教は始まらないのである。

学校教育が批判されねばならないのは、この感動を育てる面において充分でないということである。つまり知的教育の前段階の心情育成が不足がちということ。

その育てられた感動、純心情が信、帰依の心となる。帰依とはそのもとの、大いなるものへ精神が返ってゆく、それを己の依り所とするということである。どんな財物よりも、もっと大いなるものを依り所にせよ−と釈尊は明言される。その大いなるものとは、他にくらべようのない宝−ブッダ(理想者)とダンマ(真理)とサンガ(和合の仲間)この三つの宝、三宝である。

人間のための宗教ということは、この大いなる三宝への帰依、信を土台とし、その三宝を学習し、了解し、それを体得、一体化し、少しでも毎日の暮らしの上で生活化してゆくことである。

過去の業におびえることでもなく、未来に何となくあこがれることでもなく、今日、何を根拠として生きるか、どのような心情、感動、どのような真理観をもって生きるか、それが仏教である。

過去も未来も皆、現在というか、今日一日、どのように生きるかということにかかってくるがゆえに、過去としてのあるいは未来としての価値があるのである。人間として真に生きるということは、人間としての価値を現わすということである。それは価値への感動、了解がないことには始まらない。

三宝は価値そのものであり、まことに耳かたむけるものである。釈尊の呼びかけに喜び勇んで、熱心に聞くところに、三宝帰依という、信者としての最高生活が始まる。

大地に打ちこまれた標柱がゆるがぬように、三宝帰依の信、心情がゆるがぬところに、救われも覚りも明らかなもの、確かなものとなってくる。

三宝の声が、この地に満ちあふれる時、日本は釈尊の仏教国となる。残念ながら、この日本には、この三宝の声はあまりにも小さい。今後三十年、三百年とかけてゆかねばならぬ大問題である。この問題意識こそ、仏教徒のまことの信と云うべきであろうか。
(浄福 第76号 1980年1月1日刊)      田辺聖恵

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