信者の五法

   信者の五法
仏教の在家信者としては、三宝を信じるだけで信者として認められる。日本の場合は仏け様かご本尊様を信じれば信者という事になるが、その中味を聞き知るという事があまりなく、むしろそのお救いやご利益を与えて下さる、その力を信じるというのが多い。それはそれであって良いのではあるが、仏教としての本来の有難さに触れることにはならないであろう。

釈尊時には必らず三宝を信じるものとされていた。三宝とはブッダとダンマとサンガである。ブッダとはダンマ(真理)を自ら覚り、その真理をもって人々を正導救済される方である。ダンマは真理であるからただ無条件に信じても仕様がない。少しでも理解し体得しようとする所に自己の転換が出来てくる。サンガとはブッダの弟子となって真理を体得し、それを信者に正導しようとする和合の集団である。これらの三つは自分の我欲のためにするものではないからいずれも聖である。このようにそれぞれ三つの別機能を持つのが三宝であり、信ずるとはこの三宝を信じる事である。

日本ではこの三宝ブッダ如来)一つにまとめて表現するようになった為に、仏像彫刻が盛になり、大建築のお寺に大きな仏像が祭られるようになって、信仰の形は盛大になった。ところがお祭りが盛大になればなるほど、仏教の中味から遠のくという、まことに奇妙な事になってくるのである。アンコロモチの側を厚くすればアンコが少なくなるのと同じ原理だ。

紫の衣、ヒの衣などと坊さんの階級を時の権力者から決めて貰うようではとてもサンガにして聖などとは云えない。こうした体質は三宝を明確にしようとしなかった所からくるのであろう。信者の在り方にしても、釈尊時の様子を知らねばどうもはっきりしない。さて信者は三宝を信じるだけで、そこから浄施の実行が出来ればそれでいい様なものであるが、本当の信仰を持てばもっとよく知りたくなってくるはずである。そうした人々に対して「信者の五法」が正導される。それは決して難しいものではない。

   信者の五法-信・戒・聞・施・慧
信には種々相がある。家庭や社会に宗教的雰囲気があって生得的に持つは今日の日本ではとても望めない。仏教の中味をある程度、聞き知ってから信に入るのが順序であろうか。そして徹底した境地などにはとても及び難いが、ある程度の規律(戒とはいましめ~罰するような厳しいものではない)を守る生活者になる。信じるが生活の仕方とは無関係というのでは一種の二重人格になってしまう。

こうしてゆく中によき正導者についてもっと聞法をしたくなってくる。知ることと信じることは相関関係にある。聞法せずに信を深めるとあまりにも自己流になり易い。法が中心にすわっていれば、自己流になることは少ない。こうして聞知信が進むにつれて、在家者としての報恩感謝の表現なくして真の信はない事が体得されてくる。まさに浄施を事あるごとに行うことによって仏教による生活者になってゆく。施の足らざるを恥じるようにすらなる。そしてやがては慧(覚り)と云う最高の境地にあと一歩という所にまで行けるようになる。何とも有難いことである。信者としての道は広々と開けている。それをどこまで自発的に歩み出すかだ。

これらの生活者としての実践をぬきにして成仏するかしないか、云々しているのは全く観念の遊びであって宗教ではない。仏教とはまさに自分が納得出来る善き生き方をすると云う事なのだから
三宝 第139号)                    田辺聖恵