弟子と信者の種々相 (下)

 在家道としての「人間らしさ」         

先の慈雲尊者が、「人間らしさ、人間になれ」という在家指導になったのは、その人柄もあるが、原始仏教経典(アーガマ)に馴染み、釈尊仏教のあり方を歴史的事実として捉えることが出来たからであろう。大乗経典だけしか知らないと、そこには日常性というものは出てこない。超越、絶対、永遠といった最大、最高の教理しにか現われない。勿論それが求道者に於いて必要な、究極ではあるが、それによって、一般信者がいかに落ちこぼれていったかということがはたして考えられてきただろうか。

釈尊は時に回想するがごとく、弟子、弟子尼についてその特長を述べられる。尼の中で、男と変らぬ覚りに到達した人々が数多く居たということは、覚り、求道の世界に於いて男女の差が無いことを示す。素晴らしいことである。「覚り」という人間の本質に到達するには、正しく道順を通れば、何びとにも可能な、平等の世界があるということである。

又、信者について述べられるところを見ると、いかに釈尊が信者を親愛の心をもって接して居られたかが分る。

信者としての王は、マハーナーマのみがあげられ、有名なマガダ国王やコーサラ国王はあげられていない。ほとんどが長者や、一般人としての妻女などがあげられている。これは生活的に余裕のあるいわば常識生活をしている人々である。一人子を亡くして、狂気にまでなったキサーゴータミーは、尼になっている。

信者の大部分が、食物の供養をするという点で讃えられている。 これは、多勢の出家者達が托鉢をするので一日一食とは云え、多くにささげるとすればかなりの負担である。その負担は、信仰の熱心さによってなされるのだから、供養を讃えられるということは、その信者の人々が自らの信仰の深さ、熱心さを現わすものと認められるからであろう。

信者が求道出家者に、その尊敬と感謝の心をもって食物を施す、出家者は已れの修業に応じて法や覚りによる人格を支える。こゝに出家と在家との直接交流、相互互恵がある。一人の殿様の霊をとむらうといったことで寺と費用を貰うといった日本のボダイ寺などが、いかに変則的非仏教であったかがこの際、反省されねばならない。

まじめに修業をしていないと托鉢による一食にありつけないという厳しさが求道を本物にする。国家や幕府から費用を貰っていたのでは、大衆の方へは目は向かない。大衆の一人一人との互恵によって進められてゆくのが釈尊仏教である。そのためには、求道者は、最低の生活をし、やたらに施設を高大にして信者の負担を大きくしたりしてはならない。日本の寺院がなぜ高大なものにされていったか、それは法や求道者の人格によらず金ピカの仏像や山のような建築物の荘大さによって信仰をかり立てる方式をとってきたからである。親らん、日蓮道元、一遍各祖師方に見られるような死ぬまで無一物であった本物の宗教家は、日本仏教においてはむしろ例外的存在と云えよう。

食物供養をもって、又、まわりの人々に施しを喜びとする信者の道がもっともっと讃えられねばならない。そうすれば、宗教者は本来の布教活動に立ち返り、互恵の喜びを持つことが出来る。葬式仏教として僧職者を儀礼者にしてしまったのは、信者側にも責任の一部分があると考えねばならない。真の宗教者を養い、いわば養成するのは信者群なのであるから。
(浄福 第63号 1978年12月1日)    田辺聖恵


https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキング