行く先を決定せよ

 師の意味  

仏教は、社会的事業の価値評価に従うものではない。いかに慈善事業を行うとしても、その人の心が名誉心や支配欲などで汚れていれば、その人について仏教的価値があるとは見ない。社会的にどんなつまらないような仕事をしていても、その人が、仏教上の信仰を求めるのであれば、その人に価値を見い出す。

つまり、仏教は(他の本格的宗教も)社会的価値基準と全く違う価値体系を持っているのである。下駄の歯作りをしていた「才市」が妙好人として讃えられるのは、信心そのものに価値をおくからのことである。封建政治体制に社会的価値を与えてきた儒教が、仏教を軽視したのは、価値体系の相違からくるものであって、無理もないことである。従って、仏教と儒教が真に整合した場合はあまり無かった。

このように、特殊な(社会一般から見れば)価値体系については、正師(善知識)について学習するより外ない。単に、無執着、とらわれのない心になるといった、自己流の簡単な解釈、あるいは、それを目標とするようなものではないからである。日本仏教はどうも、この無執着を目的、覚りと断定してしまい、その境地にゆきつくための方法が、禅、念仏、題目といった宗派の違いをもたらしたようである。もし、執着すべきものがあって、執着をはなれよ−というのであれば、そこに仏教の哲理はない。全く常識の世界だから。従って、師も必要ではない。執着するか、しないようになるか、自分で決めるべき問題だからである。

釈尊は、自然〜人間の真実を見きわめて、執着すべきものは何もないという哲理−すべては縁起する、変化するものであるということを徹見した。それは未だかって、インドにおいて打ち立てられなかった真理なのである。この真理開発は、本師シャカムニ世尊によってなされたのである。こうして仏教は、このことを学習するものであると行く先が決定された。

目的が決定すれば、その道順、過程も同じように決定されてくる。生活上の規律(戒)が守られ、直接体験としての静思(定)が必要となる。こうして目的、覚り(慧)に到達する。浄土門では往生(慧)を目的とし、信を(定=静思)に相当させ、自己悪の徹見、恥じ入りによって規律(戒)に相当させる。もっとも一遍聖人は、信不信、共に救われるとしたが。

師を持つことは、いかなる道においても必要である。が、特に仏教においては、常識線上の問題を行く先とするのでないから、他の芸道など以上に師が必要となってくる。そこで、直接の導き手としての正師、隣接道の師としての善師が必要であり、その根本に立つところの本師が必要となる。

正師はこの本師をより明確にし、伝統させてくれるもの。又、善師は、隣接せる道をもって、道統をより明確にしたり、その道統から応用面としての自己個有の生き方を開発してくれるものである。こうして道統そのまゝを生きるもよく、応用面に展開するも善しである。

いずれにしても、根本道が道統されていなければ仏教ではない。仏教における創造性とは、仏教そのものを変容させてゆくことではなく、仏教的精神をもつ者が、この社会において、どのような働き、どのような働きかけをしてゆくかということである。師に完全に従うのも自己創造・実現であるし、応用面に生きるのも自己実現である。今日、この両者共々に必要になってきた。

道統をまず明確にし、これを大衆に啓蒙することと、応用面の実践をもって如実に自己を生きることが今日唯今の仏教徒の使命である。このことを自覚するかしないかが、別れ道ということに違いない。
(浄福 第53号 1978年1月1日刊)        田辺聖恵

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ 人気ブログランキングへ ブログランキング まじめな話題