結果が明白な釈尊仏教

 「結果が明白な釈尊仏教」

小学生でも自分の学業の結果を知りたいものである。そこで自己確認をしたり、反省をしたり、次の励みともする。成績表を軽くあしらったり、点数だけで云々するようではまさに親業失格。つまり結果は単に可能性を意味するのではない重さがある。

ところが日本の仏教はこの可能性の話でとどまり易い。仏教は一生の大事と云われるものだが、どうも結果が明白ではない。

なるほど言葉としては明白である。「成仏する」とか「即身成仏」とか「浄土往生」とか。だが明白という事はその中味、意味合いがハッキリしているのでなければならない。「死んだら成仏」といった言葉がまかり通りはするが、その仏けの意味がまことにハッキリしない。長い間、先祖供養や墓参りを信仰のように思い、宗教を明確に求めようとしないできた民族性に原因があるのか、仏教者がアグラをかいてきた結果なのであろうか。あるいは寺とダン家を制度として固定してしまった徳川幕府の政策のせいだろうか。

さて成仏は文字通り仏けになる事として、その実例が日本において示されているかというと、まず皆無である。日本にも宗教的天才は数々出ておられる。伝教大師弘法大師法然上人・親鸞聖人・日蓮上人・道元禅師とまことに多彩である。これらの呼称は尊敬上で奉まつられたものであるが、一人として○○仏となってはいない。一生をかけて成仏を説かれた方々であるが、自ら成仏したとも言われず、他もそうは称しない。この事に疑問を呈する仏教書を読んだ事がない。一足す一は二と私は会得した(結果を得た)だからそれを皆さんに伝える、というのが小学校教育でも普通の事。

目本の仏教は成仏の可能性や方法論を実に熱心に説く。だが私における到達結果、その実証において成仏を示すという方式ではない。

これは日本の仏教が思想哲学であったり信の強調であったりする事に原因の大半があるのではないかと私は考える。例えばハンニャ心経の解説書が無数に出る。何ら体得方法の載っていないこれを読んで、一体どんな錯覚を求めるのであろうか。

釈尊仏教は結果体得の実証の宗教である。
三宝 第164号)   田辺聖恵