原始仏教の特長

  原始仏教の特長

原始仏教の特長」仏教を思想として云々するのもそれなりに有益ではあるが、信仰や宗教にはならない。ハンニャ心経を思想として読むのでは哲学にしかならない。もし体得となればその方法が必要だが、心経にはそれがない。

     「仏教を思想とするとついに宗教性を失う」
原始仏教釈尊という個人が、真理を発見し、その真理発想を学習し体験化する方法を八聖道として持ち、しかも真理による生活化と正導実行を含むという特長がある。いわば完全なる生き方学である。基本と応用をそろえたものである。

信仰には教理が入ってなくても成り立つ。大きな山を神様として信仰することもある。宗教は教が入っているから何らかの真理や道理が含まれ、それを体得することを内容とする。特に釈尊の仏教はそうした体得を目的とする宗教である。従ってその真理の体得修道法は「八聖道」として懇切なものが用意されている。要約すれば、目的と集中である。従ってその直弟子たちは早い人で七日八日で、その目的に到達したのである。しかもその到達は自分で自覚できる具体的なもので、多くの弟子はその自らの体得を釈尊に申し上げている。さらに驚くべきことはそれで終わりではないという事である。

覚りを体得したら、その体得の通りに生活してゆく事である。単にライセンスをめざし、それを得たら別の暮らしをするといった、資格試験などとは全く違う。

日本ではこうした釈尊仏教はほとんど伝わっていない。それは中国で昔、それはレベルが低いとして採用されず、成仏でなければならないという思想内容に重点が置かれるようになってしまったからだ。釈尊仏教によればブッダとは明白である。理想の正導者、救済者という事である。成仏とはこうした正導者になって正導・救済をはてしなく続ける人間になるという事である。「妙法蓮華経」にはそのような実行動をすれば仏けになれるとある。仏けになる可能性を説いているが、仏けという肩書きが問題ではなく、その仏教者として理想行動こそが大事だと説いている。だが考えてみれば、そんな事が一般信者に可能であろうか。そしていつの間にか、このお経は有難いという信仰となって結果不明のものになってゆく。

釈尊の時代の人々はもっと宗教的に実証的なものを求めていた。どの様な結果が得られるのかハッキリしないのに、幸せな家庭生活をぬけ出してまで、その道に入るわけがない。しかもその結果が日常生活では得られない大歓喜のものでなければ、とても自分の一生をその道に託すようにはならない。

さてその結果であるが、大まかに四つないし八つの段階があるとされる。アラハン果(完全な覚り)・不還果(完全に近い)・一来果(もう一度本格的に修道する)・予流果(信仰が確立して動揺しない)の四段階。さらにその方向にある過程段階で八つ。

たとえ信者でも完全への一歩手前までは体験できるとある。いずれもこれは生きている間の体験結果である。何故ならば、そうした結果をふまえながら宗教生活をしてゆくことこそ真の仏教だからである。そして、こうした結果を自分で予測する方法が述べられている。「三宝」を明確に知り、それに帰依し、自分に応じた修道をすれば、その結果が必ずあるという事だ。単なる観念論ではない。

では死後はどうかというと、その結果の延長である。特別の修道をしない信者にも、それなりの浄信に見合った安心が得られるのだから、まさに万人に開かれた宗教と云うことが出来るであろう。
三宝 第164号)   田辺聖恵