行く先を決定せよ

行く先を習う
自分の本当にやりたいことが出来るなら、これほど幸せなことはない。しかしこの本当にやりたいこと、人生の目的、行く先を決定することは容易でない。

それは己を知ることが容易でないからである。多少、才能を持つ者は、過信しやすいし、才能のない者は、何をしたらよいか見当もつかない。又、何事を決定するにしても、自分がずっと昔からの過去、いわば自分が先祖であつた時の行い(業)経験などが、目には見えぬが重大な影響を与えているということに気づくには、四十才も中ばにならねばならない。

決定をしてその方向に進み始めても、家庭や社会環境などで、変更せざるを得なくなることも多い。あれこれ考え合せるると、己の人生目的を持てたことがいかに幸福であるか、そしてその大部分が実は、自己を取りまく周りのおかげであつたということに気づかせられるものである。

さて、その人生目的、やりたいこと、であるが−男においては、それが職業ということになるのが普通である。又一方、社会は、その職業の種類によって、価値の上下を評価し、給料の多い少いという形で現わす。そこで、人は、給料の高い仕事を望むということで、社会そのものが、文明的な自然淘汰をしている。

中国やソ連において、人間平等をタテ前としながらも、やはり技術者の方が農民より給料を高くしているというのも、物質生産=文明という社会構造では、真の人間平等が実現しないことを示している。

人間が平等であるか、あるべきか〜といったことは社会思想の問題であって、宗教ではない。仏教においては、平等を求めようとするのでなく、真理(法)の体得を目標とするのである。真理は一つ(一つとなるべきもの)であるから、同じように体得してゆけば、同じようになる。つまり結果的に人間平等が実現する。

どんな人でも、真理(法)を求めることは、素質的には可能である。すべての人は理性を持っているのだから。その素質を後の仏教では、哲学的、理諭的に仏性というようになったが、それはやがて誰でも仏けであるという話に飛躍してしまい、遂に、山川草木すべて仏けということになって、仏けの意味が分りにくくなり、やがて仏教は空中分解してしまったが、これは目的と、論理の混同によるものである。

真理を覚りたい(覚り=完全なる認識・体得)ということは、最も厳粛な人生目的である。つまり真の志の問題である。決意の間題である、可能性があるか、無いか・・・論理上、正しいかどうか、といった右顧左べんの問題ではない。

決意とは感情の凝縮である。今やたらと、テレビマンガに人を殺すという話が出てきて、女の子まで殺伐になり、非難が出だしたが、この殺すというような決意は全く論理ではない。つまりマイナス価値のことでも決意は合理、不合理を間題としないように、プラス価値のことでも、人は、合理、不合理を考えはしないのである。

決意という情緒が先にあって、あとで合理を云々し、自己弁解をするものである。又、このような決意(熱情)でなければ真の行動とはならない。多数決で決めたようなものはいかにも合理性が先に立っているようであるが、熱意(個人的真の決定)が欠けているから、推進力が半分以下ということになりかねない。

先人たちが、志、立志、初一念、仏教語では初発心(発ボダィ心)を非常に高く評価し、尊重したのは事の成否が、そこですでに八十%位は到達しているという体験によるからである。

釈尊の弟子ナーガサマーラは、別れ道で、師に行く先を問うことをしなかった。自己を主にして、師を主にするところの習慣が身についていなかった。行く先決定の重大さが、こゝで象徴的事件として伝えられている。(三宝聖典 第一部 第五十項 別れ道
(浄福 第53号 1978年1月1日刊)        田辺聖恵

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