「尊信のある民主主義」(下)

「尊信のある民主主義」(下)

(一善友)―私はまず「自分の在り方のより所」がほしいのです。仏教の事は全く分からないので、現代仏教入門という本を読んでいます。あまり分かりやすくはありませんが、法こそより所とあります。今は哲学的な本を読むのを止めました。なんだか空しいように思えてきたからです。仏教の学習によって田辺様が言われる自分の存在価値を考える事が出来るような気がします。ご指導下さい。

[より所] 自分が生きてゆく上において、いわゆる安定幸福を求めるのか、意義価値を求めるのか、その生き方態度を決めないと、すべての学習が遠回りになりますね。それはマラソンかスキーかを決めないで走る練習をする様なものです。

   「自己目的と根拠は不可分関係にある」
釈尊仏教はまず幸福と価値の仕分けをします。次にどちらを求めるか両方を求めるかと目的設定をする。それによって学習態度も決まってきます。つまり達成意欲の程度という事です。いずれにしても人生の三分の一では決めたいものです。

右の対話文は若い女性との間のものであり、通信だからあまり委細を尽くしてはいない。それを補うために種々な法話テープをお送りしている。いかにも間のびした事のようであるが、この方のペースに合わせることにもなろう。まあ人生のそれこそ一大事を学習してゆく事だから、自分の自発的べースでなければ実効はない。

哲学的思索はそれ自体価値のあるものである。だが自分の生き方と直結し、それを目的としているとは思えない。それに対して、仏教という宗教は、その思想信条を自己化して価値的に生きてゆく事である。従って従来の自分中心の幸福主義を生とすれば、そしてその結果を死とすれば、その生死の実際から離脱したものとなる。それを仏教では『生死を超える』という。しかしそれは仏教本を読んだ位の知識で得られるものではない。まず自分を俗的な幸福を求めるのか、それをさしおいて価値的に徹底しようとするのか、その両方を抱き合わせにして希望するのか、つまり自分の未来像を設定しなければならない。

しばしば仏教思想を読んで高級だとか分からないという人に遭遇するが、自分をとんと置き忘れている。中にはハンニャ心経でご利益を願うというのだから、おシャカ様が直接説かれたことではないから仕方がないのかも知れないが、更に写経と称して千円かを付着させて納入させるという信仰操作者があまたいるというのが日本的状況である。中には衛星中継で御利益を中継するという、何とも恐るべき偽似仏教者がまかり通るのが日本である。

釈尊仏教とは何か。釈尊白身が実行される事を教えられる。それは何と『聖黙と法談』である。聖黙とは自らを問う瞑想ジェーナである。法談とは雑談外という事である。仏教者の規律の中に、在家者のための使い走りをしてはいけない、というのがある。さて日本の僧職はどうかなどといった所で、これ又政治家云々と同じ事で、その自浄能力の問題である。

釈尊は在家信者の雨行大臣には、それに適応する答をしておられる。それは修道者と同列に論ずることの無意味さを心得ておられるからだ。この雨行が退出した後、釈尊は周辺の弟子全員を呼び集められる。そして修道者、仏教者としての七つの衰えざるを法を、しかもいく通りもの系列として解説される。そこには信者と修道者をごっちゃにして混乱させる様な方式をとっては居られない。私はそこに真の指導者救導者というブッダの内容が如実に、まことに親切になされていると思うのである。まずは衰える事なく、真実に栄える事の意味合い、自らじっくり考えるべきではなかろうか。
三宝 第163号)                  田辺聖恵