解説とは何か

               「解脱をぬきにした仏教はない」 
  解説とは何か
        
このように到達結果が四通りもあるということは何か仏教の不完全さを意昧するように思われるかも知れない。しかし釈尊は、現実の人間のありのままから出発し、修道の結果も実際に即したものであって、単なる観念的、スジミチ論だけのものではない。

解脱とは縁起性(すべて変化する、人間も又)であると知的に知って愚ちをなくすのであり、又それによって怒りや、やたらと激しい欲望がなくなるという感情的安定、つまり知的情的両方の到達、喜びが鉢験されることである。

このように体験を目約とするから生きている間、つまり今に於いて到達するのが最善である。しかし実際にその体験にゆきつけなかった者はどうなるか。この点においても釈尊仏教は実際的である。生前の知・信・行の徹底の度合いによって死後の到達、又は生れ返ってのやり直しが認められている。日本人はこの再生をあまり信じないから、これを聞いてもあまりその意義の深さを感じ取ることが出来ない。

それはやはり信仰が本物になつていないから死んだらしまいのように思う。生きている中に到達体験がとても出来そうにもないとなると、仏教は何にもならないものと思ってしまう。こうした直接体験の道が明らかでないとするのは、実例者にお目にかかるということが極めてまれであるということにもよるであろう。

それに初めに論じたように、日本ではこの解脱を飛びこして成仏するとかしないとか言うから、まるで体験の伴わない抽象観念論となって、大衆は何が何だか分らないという印象を受けるのである。達成目的と、それを他に正導するという理想目標とが区別されないと実際問題とはならない。

弟子信者においての得道の事実があるかないかを問うたバラモンは、一番適切な関心を持ったのである。結果が明らかでないなら、何人もその道に入ろうとはしないのが当然だ。お浄土に往生して解脱するのか、成仏するのか、又日蓮宗では即身成仏というが、一体誰が成仏したのか。禅宗で見性しない者は一体どうなるのか―。

このように具体的なそれぞれの到達の実際が明らかに評価されないと、十把ひとからげとなつたあいまいなものとなり、単なる自己満足になってしまう。達成目的、評価の基準が実際的に導入される時、初めて日本仏教も魅力のある、つまりやり甲斐のある宗教、信仰となるであろう。
(浄福 第73号 1979年10月1日刊)    田辺聖恵


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